2012/08/30

某日日記 句会その他

八月某日。

カーラジオからピストン西沢のDJ-MIX。気持ちいいことこのうえない。成分曲を調べると、1973年の「Shaft in Africa」という映画のサントラ。



「うんうん、これこれ」と上機嫌で聴いていたベースは、チャック・レイニーであったことが判明。「うんうん」と、あらためて。


八月某日。

くにたち句会。席題8題。25句ほど投句。考えずに俳句が作れたのは久しぶりのような気がする。故・田沼文雄さんの教えは、「俳句? 考えない考えない」。これがなかなか難しい。

句会後、俳句の話があまり出ないのが、この句会の特徴(私の行く句会はだいたいそう)。句会のあいだ、さんざっぱら俳句の話をしているのだから、終わったら当然、別の話でしょ?と思っていたが、これは、どちらかというと異例らしい(句会後も俳句の話をする句会が多いらしい。そういえば…)。

この夜は、例えば、某若者の内面における架空妻vsリアル女医といった問題からだったか、そうじゃなかったか、なぜかその方面に針が振れ、フーコー的観点も見え隠れしながら、最後は獣姦まで。淑女も交え、広範かつディープに話題が展開したのでありました。


八月某日。

某誌より依頼の八田木枯さん追悼文を締切ぎりぎりに書き、送稿。はなはだ心許ない。昨年3月19日に木枯さんが亡くなってから、思い出話などを、例えばブログや mixi などにほとんど書いていないと思う。書きたくなかったのは「もったいない」からだった。私が木枯さんと接したのは、ほんのわずかな時間だったが、それでもいくつかの思い出はある。それは、たくさんの人に披瀝せず、自分ひとりで大事に持っておきたい。それが、もったいないという感情。

追悼文は何を書けばいいのかわからない。木枯さんの俳句については、エラい人がたくさん書くだろうから、私などが書くことはない。書けるとも思わない。結局、小さな思い出話と木枯さんへの思いを綴ることになった。それでよかったのかどうか。よくわからないが、もう送稿しちゃったから、しかたない。諦めて覚悟を決めることにする。

2012/08/27

消息 千の眼

週刊俳句・第279号に、「夜空 谷口摩耶句集『鏡』の一句」 を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_26.html

句集評というと、句集の全体を論じる/評するようでヘヴィーかつハードルが高い。紹介に近いレビューというスタイルなら、ある程度、負担なく書ける。

句は引用しすぎない、が原則。というか、好み。たくさん引用すると、それだけで全部読んだ気になる。「もっと読んでみたい」と思わせるのがレビューの本旨、ではないか、と。そうなってるといいのですが。


ウラハイに〔今週号の表紙〕第279号 夜は千の目を持つ を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/08/279.html


The Night Has a Thousand Eyes は同タイトルでまったく別の2曲があり、小説、映画との関係もややこしい。その話はまたいつか書くか書かないか、わからないけれど、今日はジャズっぽいほうの曲の、まだ暑いことだしボサノヴァ調の版を。


2012/08/26

俳句、載せてください

俳句を掲載してくださる媒体を探しています。

 俳風昆虫記〔夏〕
 Fabulous Insect Adventure 64句(100句オーダーにも対応)

新作・未発表句だけでなく、既発表(改稿)も含みます(スピカ掲載の「虫の生活」、句集『けむり』等)。

掲載媒体

ネット上のウェブサイト/ウェブマガジン/俳句系ブログ…どこでも結構です(個人ブログは除く:ふつうオファーはないでしょうけれど、念の為ね)。

紙媒体:「来年の夏号で」というお申し出もご遠慮なく。

お申し出の期限:今週の金曜日(2012年8月31日)まで。
※先着順で決定ということはありません。

ご連絡・お問い合わせは tenki.saibara@gmail.com まで。

掲載料は、恐縮ですが「無料」でお願いできれば、と。


※どこからもお申し出がないときは、悲しい……って、その話じゃなくて、週俳に泣きつく用意も。泣きつかれても困る、という声も。

2012/08/25

ごぢやごぢや言ふな

こういう記事が出て、


知っている名前だから、ざわざわする俳人さんたちでありましたが、


御意御意。


そんなことくらいでごじゃごじゃ言うな、と。

土曜日午後を自宅でゆっくり過ごす一俳句愛好者は思いましたですよ。

自分濃度、ひゃっ、ひゃくぱーせんとー?

矢野風狂子さんが、私の記事「自由律俳句・断章」を受けて、「私が《自分からの自由》に利用するのは「写生」です。」とツイート。

へえ、自由律俳人も、そんなことを考えるんだー!と少々驚き、その後のツイートに注目。質問を入れて、考えを聞かせていただいた。それをまとめたのが、これ↓

@fu_kyo さんによる《自分からの自由》《写生》《定型・自由律》

http://togetter.com/li/361047

どうなるのかと経緯を追っていたら、どうも雲行きがあやしい。で…




えー! 思いっきり、「自分」に行っとるやんけ~!

と、まあ、びっくりするやら、力が抜けるやら、です。

つまり、「自分濃度100%」で行きたいけど、それじゃあまりに恥ずかしいし、読者にはつまらないだろうから、「自分濃度」を薄めるために《自分からの自由》をちょこっと混ぜますわ、ということですから、最初に抱いた私の関心は、いったいなんだったのでしょう?

風狂子さんは、《自分コンシャス》を全面的に受け入れていらっしゃるようです。それならそれで、そこを貫けばいいと思うのですが、「それだけだと、ほ ら、読者が…」というのは、合コンで、自分の話だけしてモテたいけど、それだと嫌われるみたいだから、違う話もするね、みたいな話でしょう。

それにですね、「ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)」って、ぜんぜん違いますからw 「自分濃度100%」って時点で、含羞ゼロですから。

風狂子さんは、マジメなのか、ふざけているのか、私がからかわれているだけのか。そこはもう、なにがなんだかわかりません。

私がだまされ、からかわれてるだけだとしても、だいじょうぶ、「私の青春を返して!」などとは言いません。



上記の「まとめ」のあと、「写生」や五七五についてもコメントややりとりががあるのですが、「え? 定型の人は削っていって五七五にするんじゃないの?」といった驚きを見せる風狂子さんがいて、こっちのほうがよっぽど吃驚しましたぜ、という感じです。

ひょっとして、削るのがもったいないと思った人が、長い系の自由律に行くんですか? 教えて、自由な人。

写生に関する部分も、なんだか、《世界》を描写するには、地球の表面積と同じ大きさのスクリーンがベスト、みたいで、それはそれで「シミュラークルとシミュレーション」ぽくて刺激的ですが、文芸でそれだと大変です。



まあ、そんなこんななわけですが、ひとつ、要点は、風狂子さんに限らず、《自分コンシャス》っぽい俳人さんは、「自分濃度」の濃淡は別にして、基本的には、読者が、作者に興味をもつ、と信じているフシがあるところです。

念の為に言っておくと、これ、有季定型も無縁じゃなく、日常のつぶやき+季語、人生訓+季語、私ってこんな人+季語、といった俳句は少なくないのです。「自分なりの表現」「自分なりの感性」といったワケのわからないことを言う人も、その部類です。

でもね、ふつう、読者は、俳句(ことば)に関心はあっても、それを書いた「どっかの人」になんて興味はありません。

「あんたの話はいいから。俳句がどうか、だから」。

それが読者の気持ちなんじゃないですか。

特定の俳人を好むというのは、その人名義の俳句が、読んでおもしろかったという積み重ねの信頼が基盤。その意味では、作者名は商標みたいなものです(これは週俳掲載の 俳句のなかの「私」 に書いた)。



どうも、これは、おもしろい自由律俳句に出会うのが、私にとって先決かもしれませんね。こんど自由律の話をするとしたら(しないかもしれない)、その話ですかね。

2012/08/24

【再掲】くにたち句会 8月のお知らせ

2012年8月26日(日)

14:00 JR国立駅南口集合

句会場所:いつものキャットフィッシュ

席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。

ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。

2012/08/23

消息 芸者その他

真説温泉あんま芸者 第9回 俳句のなかの「私」:週刊俳句・第278号 を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/9.html

真説温泉あんま芸者シリーズは前回が2011年1月16日。1年半ぶりだったんですね。

若手女流俳人であり作家の石原ユキオによる憑依俳句。そして、自由律俳句!

《私》という微妙かつヘヴィーな問題を、カジュアルに(いいかげんな感じで)書きました。


でもね、こういうの、領土問題と同じで、俎上に載せない、議論しないことで平和が維持されているというオトナの差配・オトナの事情があったのかもしれませんね。


俳誌拝読 『里』2012年2月号:ウラハイ を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/08/20122.html


なお、俳誌や句集、俳句関連書のレビューは、週刊俳句で広く募集しているのですが、なかなか集まらず、内製です。

スタイルを問われないレビューって書いてておもしろいですよー。ちょっとした暇つぶしに、また俳壇ジャーナリズム(ぷっw)体験として、皆様にオススメです。

2012/08/22

その後

1日で2000view超え、って。

「俳句甲子園のレベル?」http://togetter.com/li/358959 アホみたいな伸び。

振り返ると、最初のツイート、@sekihan さんの「酷評」がいちばん心優しいような気もしてまいります。高校生を一人前の作者と見ていらっしゃるわけですから。

心配される方も多いようですが、当の高校生諸君は、何を言われても大丈夫ですよ。世間知らずで生意気だから。

私もそうだったし、みなさんもそうだったでしょ? 「世間知らず」と「生意気」が高校生の仕事みたいなものです。

それとは裏腹に、俳句高校生たちには、馴化されたようなところがあります。@kitaoojitsubasa さんの「憤り」には納得であります。ただし、オトナ俳人にも馴化は多い。年齢じゃないよ、ってことですか?


関係者の皆様、お疲れ様でございました。「ご当地応援俳句」シリーズというものが私にはありまして、それをもって今回の話題は打ち切り。

  愛媛県俳句以外もがんばれよ  10 key



前記事:俳句甲子園を安全に語る方法
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html

2012/08/21

俳句甲子園を安全に語る方法

ますはじめに言っておきたいのは、私は、俳句甲子園にほとんど関心がなく、あまり知らないということだ(ここ、「マツコ&有吉の怒り新党」新・3大○○調査会のナレーション調で)。

関心がなくて知らないなら書くな、って? まあまあ、そうおっしゃらずに、そういう視点も何かの役に立つかもしれない。

俳句甲子園という名は昔から聞いたことがあるような気がしていたが、はっきり存在を知ったのは、週刊俳句の当番をやりはじめる少し前(2006年)くらいか。今では、しくみはなんとなく知っているし、開成があんまり強いんで、敵役の位置づけになってることも知ってる(2チーム出ているのは最近知った。開成Aと開成Bで決勝になったら、どうすんの? みんな引くよ)。それくらいの知識はあるのですが、実際に「対戦」を見たのは、何年か前、YouTubeで数分のみ。

これまでどんな句が登場したのかも、あまり知らない。週俳の縁で、俳句甲子園に出たことのある若手俳人とたまに話をするようになり、その関係で、彼らの俳句甲子園時代の句を知っているが、その数句程度(いま週俳の当番をやっている村越敦君の《それぞれに花火を待つてゐる呼吸》とかネ)。

で、そんな私にも、ツイッター上で、俳句甲子園の話題が流れてくる。ちょっと興味深い展開があったので、まとめてみた。

≫ 「俳句甲子園のレベル?」 http://togetter.com/li/358959

sekihanさんの、レベル低すぎ、自信満々風に擁護するこましゃくれたディベートとやら、といった、いわゆるdisりに端を発したもの。

私自身は、その次のツイート「若者は俳句を捨てよ、街に出よ。せっかくの夏休み、他にやることはないのかしらん。」のほうがむしろsekihanさんの言いたいことなのではないかなあと想像する。

私も少しそう思った。「若い身空で何が悲しうて俳句なんぞを」と、俳句甲子園に限らず若い俳人さんたちを見て、思ったものだが、「おまえはどうなんだ?」と訊かれたら、「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。それに、何をしようが大きなお世話なので、言わない。いつ何と出会って、どうハマってしまうかは偶然に過ぎないのだ。

話を戻そう。上に挙げたツイッターのまとめは「誰でも編集可能」にしてあるので、まだ増えるかもしれない。このさき別の展開があるかもしれないが、現時点では、「高校生がやることに、おとなげないことを言うものじゃない」といった意見が多い。

それはそうなのだが、「おとなげない」というセリフは、子どものテーマを扱うときは、最強の抑止力になる。「オトナとして、やさしく見守ってやればいいじゃないか」といった心優しい態度は、じつは凶暴に言論を封殺する(大袈裟に言えばだけど)。ツイッターでも書いたが、苦言が出てきてもいいじゃないですか。「素晴らしい」ばかりじゃ、気持ち悪い。

俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。

週刊俳句で、以前、佐藤文香さんが俳句甲子園のレポートを書いたところ(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/08/blog-post_16.html)、コメント欄が少々荒れた(記事の下に延々と並ぶコメントを参照)。

これはまあ、佐藤さんがみずからのチームの勝敗や判定に触れたものだったので、なんらかの反駁が来るのは予想できたが、かなりの粘着ぶりでありました。

さらに、ウラハイで私が、上記佐藤記事に触れたところ(≫http://hw02.blogspot.jp/2009/08/blog-post_3256.html)、またもやコメント欄でゲンナリするやりとりに。

コメント主の名義が「シキ」とか「ノボル」とか。松山の方ですか、俳句甲子園の関係者ですか、との類推を呼び(もちろん断定はできません)、そうだとすると、さらにゲンナリ疲れてしまうのであります。

数例の出来事で、何かを判断するのは不適切かもれませんが、どうも、俳句甲子園というのは、きれいごとでしか語れない、語らせないところがある。だとしたら、かなり気色悪い状態でしょう。なんなんでしょうね。この雰囲気は。

これは、参加している高校生の問題ではありません。オトナの問題です。

別に、disれ、けなせ、と言っているのではありません。ついでにいえば、私自身は、俳句甲子園が悪いとも良いとも思わない。disるネタもないし、けなす話題も持ち合わせていないから。

ただ、「素晴らしい若者たちが素晴らしい俳句に出会う素晴らしい場、素晴らしい先輩たちや素晴らしい先生方に囲まれて素晴らしい時間を過ごす」といった語り口以外の意見もあっていいよな、とは思います。

そして、こうした《「素晴らしさ」強制力》を居心地悪く思っている高校生や俳句甲子園出身者もいるのではないか。私が知っている俳句甲子園出身者に関するかぎり、彼ら当事者は、むしろ醒めています。《素晴らしい症候群》には罹っていないのです。



さて、俳句甲子園をあまり知らない私も、俳句甲子園出身者から感想を訊かれたりします。外から見てどのように見えるものなのか、彼らも知りたいのです。数分間のYouTube観戦だけですが、正直にそのときの感想を言いました。

「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」。

なぜそう思ったのか。きっと、互いに言葉が、対戦相手にではなく、クライアント(審査員と聴衆)に向かっていたからです。これは対話ではなく、もしかしたらディベートでもない。それぞれのチームがクライアントに向かってプラン(句)を提示し、競合の別プランと比べていかに優れているか、さらにいえばクライアント(審査員)にとって、この句を選ぶことが、いかに適切な選択であるかを説得する。当然ながら、このように見えたのは、対戦システムのせいで、高校生諸君のせいではありません。

それともうひとつ、サラリーマンのように見えたのは、既存の評価基準への従順を強いられているせいでもあるようです。これも、高校生諸君のせいではありません。



もうひとつ余談として。俳句甲子園出身で今も俳句を続けている人を何人か知っていると先程も言いましたが、「俳句甲子園」という出自をどう捉えているかは、各自大きく違うようです。これは内面の話。

「俳句甲子園」という自分の過去を、引きずる、誇る、利用する、疎んじる、それらが本音かポーズか…等々、各自がたいそう複雑に異なるようなのです(私が充分に理解しているとは言いません。見ていて、話していての感想です)。



私自身、俳句甲子園に関心がなくとも、俳句甲子園が、俳句世間の現在のありように大きな影響を与えているとの認識ははっきり持っています。俳句甲子園がなければ、俳句世間の風景は、今とはまったく違ったものだったでしょう。

その意味でも、俳句甲子園は、夏の風物詩、俳句好きの十代の少年少女がたくさんいることにオトナが安心する行事というだけでは捉え切れないものを抱えているように思います。もう少し批評の言説でもって語られることも必要かもしれません。


《参考記事》 俳句甲子園出身者の今の気持ち、というか機微がうかがえる座談記事です。

俳句甲子園の思い出① 村越敦×千倉由穂×高崎義邦×神野紗希×野口る理
http://spica819.main.jp/yomiau/7738.html
俳句甲子園の話②
http://spica819.main.jp/yomiau/7795.html

2012/08/19

文語体か口語体か

さて、ここで問題です。次の句は文語体? それとも口語体?

  蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ  小澤實

答えは、「どちらでもない」。

ついでに爽波も見てみましょうか。小川春休さんの「朝の爽波」第28回で取り上げられている7句。

雪兎作つて溶けて如意ケ嶽 →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。

煙草盆火を埋めて草芳しや →文語体

落ちてゐる明智の森の古巣かな →文語体

洩るがまま溢るがままの桶日永 →文語体

葭切の戸を押してくる見舞人 →文・口どちらでもない。

柿の木のいつまで滴らす喜雨しづく →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。

箒草蝶の骸の沈みゐし →文語体

7句のうち3句は、文語体でも口語体でもない。


はい、このように、一句一句を見ると、文語体でも口語体でもない句は存外多い。これ、当たり前のことを言っているだけです。

なぜ、当たり前のことをわざわざ書くのかといえば、文語体・口語体どちらでもない句がたくさんあるのに、「私は文語体だ」「あの人は口語体だ」とかといった姿勢や作風にそんなにこだわってもしかたない部分もありますわな、というわけなのです。

もちろん、口語体が、いわゆる作家性の主成分であるかのような作家はいます。たいていの人がすぐに思いつくのは、例えば池田澄子さんでしょう。ただ、作家の「文体」は、文語/口語の二分法で割り切れるほど大雑把じゃない。


文語体でも口語体でもない句はたくさんある。これは屁理屈ですし、一面を言ったに過ぎない(問題となるのは、文語体・口語体の違いが出る場合の話だから)。

でも、あんまりしゃっちこばって、文語体で行くのか? それとも口語体か? と見構える必要もないのではないでしょう。

(文語体だからダメ、口語体からダメ、という予見に支配された狭量な読者は、とりあえず相手にしなければいいのです)

そのときそのとき体が欲するものを食べていれば、まずまず健康に過ごせるでしょう、という程度に。

(喩えがヘンか)

2012/08/18

観くらべ 第17番 資本主義

世の中には、どこからこれだけのオカネが湧いてくるんだろうという大富豪もいれば、その日の食費も心配な貧乏もいる。当たり前の事実を言っていますが、はい、予約したDVDをTSUTAYAが2本ずつ郵送で送ってくれるサービス。その2本に勝ち負けを付けるという、ヘンテコリンなシリーズの第17弾です。

ジョー・ブラックをよろしく(マーティン・ブレスト監督/1998年)



ファーストフード・ネイション(リチャード・リンクレイター監督/2006年)

「ジョー・ブラックをよろしく」をひとことで言うと、死神のホリデー・ロマンス。死神(ジョー・ブラック)役のブラッド・ピットのちっちゃな子どものような笑顔(これ、ほんとに魅力的なんですよね)、取り憑かれる大富豪役のアンソニー・ホプキンスの、一流の人間をやらしたら誰にもひけをとらないセリフや表情、立ち居振る舞い、どちらも満喫できる映画。

ちょっと考えてみると、死神という超常的な存在=B・ピットにナイーヴネス(生硬)、モータルな(死すべき)存在=A・ホプキンスに洗練という属性を結びつけている点、意外に深い、とも思えてきましたが、映画全体の感触は、いかにも米国、ハリウッド的(と言っていいのだろうか)。「これが人生♪」なヒューマン映画でもありましょう。楽しめました。

しかし半面、「所詮、大金持ちの話でしょ」とヤサグレたくもなる。「この素晴らしい世界♪」と歌われてもなあ、そりゃあんたにとっては素晴らしいだろうけど、とシラケる部分もある。とりわけ、下記で述べる「ファーストフード・ネイション」を見てしまうと…。


「ファーストフード~」は、ハンバーガー生産の裏側、ということでノンフィクション的な映画かと思いきや、存外、劇映画っぽい。精肉工場で働くメキシカン(違法越境労働者)のありさまがリアル。といっても重苦しくなく、メッセージ性は濃過ぎない(それはそれで問題か)。

この映画を観てしまったので、このさき、ハンバーガーはよほどのことでないと食べられない(これまでもあまり食べていないんだけれどね)。

で、勝敗なのですが、引き分け。

なんかねえ、世の中、どちらもあるんだなあ、と。

こう書くと、のんき過ぎますが、資本主義の世界で、金持ちでもなく極貧でもなく、幸せでも不幸せでもなく、テキトーに暮らしている者としては、どちらの映画もこの世の一様相ではあるな、と、興味深く楽しみました。

なお、マーティン・ブレストは、「ビバリーヒルズ・コップ」という大ヒット作の監督。これよりも「ミッドナイト・ラン」がとても良かった。リチャード・リンクレイターは「恋人までの距離(ディスタンス)」「スクール・オブ・ロック」「ビフォア・サンセット」がとても良かった監督。



2012/08/17

自由律俳句・断章【補足】

拙記事「自由律俳句・断章」後に、藤井雪兎さん(「層雲」同人)が解説を加えてくださった。
http://togetter.com/li/356730
(…)「うまくやったな」というパターンは当然出て来るわけでして。そうなると真似し出す人も出て来る。そしてそのパターンは広まって、やがて定着する。(…) 
なるほどです。私がかいつまんだ《規範→自由→自由の規範化》は、外(規範)との関係ですが、それよりもむしろ自由律俳句内部での《成功→追随→普及》。気取っていえば《モードの陳腐化》と捉えたほうが現実的で的確のようです。
今はその「自由律の定型」がそれなりにあり、昔より自由律俳句は作りやすくなったのですが、逆にそこから外れた句はあまり評価されなかったりします。
作句も評価もプロトコル化して(やたら「~化」を使ってますね)、固定化する。このへんは、いわゆる有季定型と同様の事情です。


一見して違いの際立つ2つのもの(今回は自由律と定型)の、共通するところを見ていくのもいいかもしれません。

2012/08/16

自由律俳句・断章

自由律俳句の話題がツイッター上で展開された。「なるほどなあ」と参考になる部分が多かった。

ふだんはいわゆる定型の句に多く接している自分は、自由律俳句についてはなはだ不案内です。でも、拒否感はない。俳句の読み書きにおいて、書くものは限定されるが(誰でもそうだろう。その人の書く俳句には一定の傾向がある)、読むについて限定はないのです(俳句はナンデモアリっすよ)。また融通無碍な成果主義(書き手の信条や系譜などはどうでもいい、その人から出てくる句がおもしろければそれでいい)。

覚書として書き留めておこうと思いますが、ツイッターほかでの議論の全体がわかっているわけではないので、断章。


一般に、規範からの逸脱、規範からの自由を当初めざしたものが、やがて規範となってしまう。自由の規範化、逸脱の規範化という、ある種の本末転倒、倒錯はめずらしいことではありません。

ところで、いわゆる有季定型、作風としても穏当な句(群)に「自在」を感じる作家も多い。定型に不自由を感じさせない。もちろんそうでない場合も多い。これはもう書き手による。

一方、口語がもっぱらとなった自由律俳句にもし「自在」が希薄だとすれば、それは反語的に「自由による束縛」という不幸に見舞われていることになる。これもまた書き手によるのだろう。

さて、上記ツイートに文語・口語とあるのは、今回の話題の発端が、自由律俳句集団 『鉄塊のブログに掲載された記事「I Don't Wanna Grow Up」の次の部分だったから。
定型との合同句会の締め切りは間に合わず深夜になってから送った。/定型俳句で「けり」とか使ったけど自分じゃないみたいで気持ち悪い。やっぱ普段使わない言葉を使うのはおかしいよ。定型の人は、最初はみんな慣れないとか言うのだろうけど、腑に落ちない。俳号や自愛が肥大化して気にならなくなるのかも知れない。なんかの病理だ。
「気持ち悪い」というのは違和感ということでしょう。俳句をつくるとき、こうした実感部分は大事です。

しかしながら、「普段使わない言葉」だから違和感があるのかどうかは、ちょっと考えどころです。言い換えれば、普段使っている言葉なら、気持ち悪くないのか、違和感はないのか、ということです。

俳句(定型でも自由律でもなんでも)のようなもの(まあ、文芸です、創作です)を書く、それが他人様の目に触れるということは、しばしば、気持ち悪さや違和感を伴います。

だって、思春期をとっくに過ぎたオトナがリリカルな趣を醸し出しちゃったり、「自分語り」の要約+季語(あるいは無季)といった内容だったりするわけですから。一方、それが気恥ずかしくて、一発ギャグのような作風へと走ってみたものの、それはそれで「なんでわざわざ五七五に?」という冷静な反応の仕打ちにあったりします。

このあたりは文語・口語、定型・非定型の如何にかかわらず、ついてまわるわけです。

俳句に携わる、俳句を遊ぶとは、それを乗り越えるなり、解消するなりの「処理」が施されていることだと思っています。

よく初心者(であろう人)の句に「恥ずかしい」感じが漂うのは、拙いからというより、本来的に存在するはずの気持ち悪さ・違和感に無自覚というのが大きい。気づかないうちは、技術的に解消されることもありません。


「恥ずかしいなら書かなければいいんじゃあないの?」という冷徹な意見は、私もいっしょに受け止めますが、そこはそれ、恥を乗り越えて到達する人生のコクというものもありますし、俳句というのは、続けていると、書き手とは別に読み手のマターであるということがだんだんわかってくる。読んでおもしがる人が一人いれば書いてやろうじゃないの、と。別に減るもんじゃないし、と。

俳句を続けるとは、読者に出会うこと、ともいえる。これは最初のうち、なかなか気づかない。

話を戻すと、風狂(ヤノカツ)さんのおっしゃる「詩」は、まず置いておいて(私は、俳句を詩と考えていない。俳句は俳句。その話はややこしくなるのでやめておく)、「せめてバサバサに乾いた詩」という部分。

ドライな俳句、ウェットな俳句。これは書き手によるのでしょうが、全体に、自由律のほうがウェットと感じています(その判断が正しいかどうかは知りませんが、自分の印象として)。

なぜなんだろうと考えてみると、ひとつには、《自分》コンシャスという要素。どうも、そこから来る湿度、という部分が大きいようです。

書き手のなかの《自分》が句の中で幅を利かせると、叙情しようが、笑おうが、悲しもうが、怒ろうが、叫ぼうが、囁こうが、結果、ウェットになる。

ちょっと飛躍して言うと、《自分》なんて監獄です。《自分》から自由になれるなら、有季定型だろうが、自由律だろうが、なんだってかまわない。って書いてから、これはまた別の大きなテーマだと気づきました。

少しだけ書いておくと、この自分からの自由》に、定型を利用している人が多いのではないかということです(私もそう)。例えば、自分がどう考え、自分がどう思うか、それを書かないための定型。言い換えれば、自分では考えてもみなかったこと、思ってもみなかったことを経験するための定型。舌足らずですが、そんな感じです。

その点で、定型を用いない自由律俳句は、どのように対処しているのか。興味が湧きます。

というわけで、自由律俳句については、機会があれば、また考えてみたいな、と。

2012/08/14

某日日記 晩夏へ、ほか

八月某日

yuki氏の生徒さんたちのピアノ発表会(7月)、その録音ファイルを整理(PCは便利ですね。昔ならテープ編集だったのだろうか)。先生たち(yuki氏とご友人3名)による演奏(8手=連弾×2台)の音源を、ふと思い立ってYouTubeに。初めてのことで心許ないが、ヘルプを参照しつつアップ。



八月某日。

新三郷のイケアとコストコへ。イケアといってもジャムくらいしか(安価)買いたいものはないのだが、マグカップひとつ壊したところなので、それを買う。コストコは、昔ちょっと話題になったホールセールクラブ方式。この倉庫のようなスーパー、初めて入ったが、摂取カロリーの必要量が極めて少ない老夫婦には、用のない場所だった。大量の水ボトル、馬鹿でかいピザを買って帰る人、多数。

人がどんなものを買っているのかを見物する面白さ。というわけで、買い物というより、「買い物見物」。コストコというところは、その点で好適。カートがでかいし、何が積んであるかがよく見える。

八月某日。

朝早く起きて五輪閉会式の中継を見たyuki氏に「どうだった?」と訊くと、「つまんなかった。だらだらしてて」。

再放送(ダイジェスト)を少し見た。出てくるミュージシャンの中高年っぷりが感慨深い。とっつぁん、じいさんがマイクで歌い、ギターを弾く。そういえば、ザ・フーも4人のうち2人はすでに鬼籍。


いい景です。

暦ではなく実感が、晩夏へと、向かっていきます。

2012/08/13

読む準備

『hotel 第2章』(no.30/2012年8月1日)という同人誌(?)を拝読。詩の作品が多いなか、柴田千晶「幽霊画」10句。

  幽霊画に描き足す赤子山うつぎ  柴田千晶

このところ話題の「怖い俳句」です。2句目の《目覚めてもまだある死体グラリオサ》も怖いといえば怖いが、ちょっと吹いてしまう可笑しさを伴う。赤ん坊、怖いです。

2句とも、植物(花)が季語。グラリオサの名は知りませんでしたが、ググってみると、ああ、これか、と。山うつぎは、馴染みがない気がしていますが、これは私の無知のせい。植物の季語を座五に据えるというのは、俳句として安定していますが、ひょっとしたらこれは俳句に慣れ親しんだ者の感覚かもしれない。そうじゃない人は、どうなのだろう、と、ふと思いました。例えば、この『hotel 第2章』に詩を寄稿している人たちにとって、「書き手の創作部分/(切れ)植物季語」という構造は、すんなり受け入れられるのか、と。

(詩にしても、「切れ」に相当する部分があるのかもしれません。意味上の不連続)



ところで、この少し前に『GANYMEDE』(vol.55/2012年8月1日)という同人誌(?)を手にする機会を得ました。こちらも詩がたくさん載っていて、そのなかに俳句のページもあります。俳句が載っている俳誌ではなく、「詩」という括りで他ジャンルと同居している文芸誌に、続けざまに出会ったわけです。

そこで、ひとつ感じたことはリテラシーということ。

具体的に言うと、自分には「詩を読むリテラシー」がないので、目で文字を追っても、ほとんど入ってこない。結果、読まない。

ジャンルの親しさの如何などにこわだることなく(いわゆる白紙状態で虚心坦懐に)、とにかく、読んでみて、どのように感じるかを重視する考え方もあるのでしょうが、どうも実際にはそうは行かず、最低限のリテラシーが必要な気がしました。

リテラシーなどというより、むしろ、読む側の「心の準備」程度のことかもしれませんが、


なお、『GANYMEDE』第55号に掲載された俳句(6氏6作品・句数はさまざま)については、また後日、書くかもしれませんが、全体に「流した感」が見えました。俳句というもの、書き手一人当たりの発表数の「ちょうどいいあんばい」というものがあるのかもしれません。

2012/08/12

消息 池禎章さんの俳句その他

オリンピックにかまけていたわけではないのですが、第2回から、ずいぶん間があきました。

池禎章さんの俳句
第3回 私コスモスいつも離陸路着陸路:週刊俳句・第277号

ウラハイに、
【新刊紹介】角谷昌子〔著〕八田木枯〔監修〕『山口誓子の一〇〇句を読む 俳句と生涯』

俳句関連書や句集、また同人誌・結社誌のレビューは、週刊俳句のコンテンツとしてさらに充実するといいのではないかなあ、と。当番のひとりとしてツイッター等でも記事募集をやっていますが、まだまだ、というところでしょうか。「書いてみようか」という方、お気軽にご連絡ください。

2012/08/11

教科書と俳句

「小中高の国語科教科書に載せたい俳句2句を選んで、できればその理由も」という、そうとうマヌケなアンケートが現代俳句協会青年部から回ってきて、その締め切りが昨日なのでありました。

国語の教科書に(歴史の教科書ではなくて)俳句は必要か、といったテーマならともかく、「載せたい句」といったテーマには1ミリも関心がないので、パスさせていただきました。

(飲み屋で血液型ばなしに乗ってこない気難し屋のようなことをゆうとりますが)

アンケートという手法は、手作業だけで確実に誌面が埋まるので制作サイドとしては好都合かもしれませんが、その手作業に携わる人に相応の労力負荷があるわりには、誌面としては「これこれこういう結果でした」「ああ、そうですか」といった結果に終わりがちです。今回、そこのところをどのように裏切ってくれるのか、というところまで見届けることはきっとできませんが、ご健闘を祈念させていただきます。

2012/08/10

テレビカメラに向かってピース

…という光景はこのところ見なくなったと思っていたら、ロンドンはウェンブリー・スタジアム、女子サッカーの表彰式の日本チームの面々が。

アメリカとの決勝戦は、この前のワールドカップよりも「いい勝負」をしていたように見えましたが、結果は逆。前回は引き分け(PK戦で勝って優勝、その後、大変な騒ぎに)。今回は、それ、ハンドでPKだろうが! 岩淵が決めとけばなあ、という1-2の敗け。

少し遡れば、準決勝。男子チームはメキシコに負け、女子チームはフランスに勝ち。ともに、対戦相手のほうがウワテというゲーム内容で、勝敗を分けたのは、キーパーと運、のような気がします。

運に大きく左右されるのも、サッカーの面白さですね。

さて、女子サッカー。U-20のワールドカップが8月19日から日本で開催。若い日本チームには、巧い選手がいるらしいので、ちょっと楽しみです。

2012/08/08

シロウトとクロウト

「モンスターシロウト」というネーミングが素敵な《山田耕司・俳句時評 第60回 道化のワダチ》 。
「気の利いたことを言え」というのは、シロウトぶりの深刻度合いとはほぼ関係なく、たいてい無分別に投げかけられると言っていい。/俳人には、そういうチョッカイを出しやすいのである。/俳人が出してきた「気の利いたこと」は、シロウトでもチェックしやすい。五・七・五であり、季語というものがはいっていればよいということを学校で習ったのである。
なるほどです。こうしたチョッカイは「クロウト」と思っていない証拠であります。同時に、山田さんから「モンスターシロウト」と呼ばれた人(たち)は、自身を「シロウト」と見ていない(範疇化していない)。いないからこそのセリフ。してみると、シロウト・クロウトの二項(あるいは範疇)は、俳句世間の側だけに存在するもので、一般には、そんなものはないのかもしれません。


私は俳句世間にいるわけですが、俳句の「クロウト」の存在について、あまり確証が得られない。簡単にいえば「そんなの、いないんじゃあないの?」。まあ、何をクロウトというかが問題ではあるのですが。


それはそれとして、リアルな現場における「はい、ここで一句」というリクエストには、


といった対応がベストの部類かと。

2012/08/07

落蟬 対中いずみ句集『巣箱』より

落蟬の赤き眼の閉ざされず  対中いずみ
ぐぐっとズームインして焦点が合う。下五は「見開く」と肯定形にするか、この否定形か、選択部分。作者は後者を選んだ。

『巣箱』(2012年7月/ふらんす堂)には何気なく気持ちの良い句が数多い。以下、気ままに。
雨粒のあらき音なり桐一葉

雲すでに日を溜めてゐる野分かな

日の丸を仰ぎ鳥の巣仰ぎけり

白菜に蝶飛ぶ春のごとき昼
小春。冬の蝶。季語と季節の絡みを軽妙に遊んだ句。
はこべらのひよこはすぐににはとりに

引く波の砂に吸はるる秋の風
今日は立秋ですね。


2012/08/06

とうとつに蛍のこと

じゃんけんに負けて群馬に生まれたの  岡本飛び地

後出しじゃんけんで負けると愛媛に生まれます。(同・コメント欄)

上野葉月「じゃんけんに負けたぐらいじゃ愛媛に生まれないのか」:haiku&me 2009年8月より

元の句はご承知のとおり、
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子

いつも思うのですが、勝ったほうは何に生まれたのかなあ、と。


2012/08/05

聞き比べ:Simple Song of Freedom



上の動画はケヴィン・スペイシー監督・主演の映画『ビヨンド the シー 夢見るように歌えば』(2004年)。未見ですが、60年代前半に活躍した人気歌手ボビー・ダーリンを描いた映画らしく、この「Simple Song of Freedom」は彼の代表曲のひとつ。

プロテストソングと呼ばれた頃のフォークソングな曲調です。ギター1本の弾き語りで、しっとりと歌う。アメリカの白人さん(の一部?)は、こういうの、好きですね。

ところが、これ、黒人がやると、とたんにゴスペルっぽく。

The Voices Of East Harlem


黒人が歌うと、オリジナルの歌詞、「Hey there, Mister Black Man can you hear me?」が「Mister White Man」に変わる。そのへんもおもしろいところです。

もうひとつ、女性歌手ヴァージョンで。デラ・リーズ(DELLA REESE)は、テレビタレントとしても人気のあったゴスペル歌手らしい(米国の中高年なら誰でも知っているといったたぐいの人でしょうか)。



堂々たる歌いっぷり、かつ、まだ余裕を残した感じで、なかなかです。

2012/08/04

某日日記 西瓜な日々

もう八月なのに、七月某日。

「句集もロクに読まない人が、俳句の何を語ろうというのだ?」と少々お怒りというか呆れ顔の御仁に、「さあ、何なんでしょうね。でも、まあ、そういう人、多いのかも」とだけ答えておく。

ひょっとしたら、これには俳句特有の事情がある。つまり、俳句をやる人は句会でかなりたくさんの句を読む。それで十分に俳句を読んでいる気になるのかもしれません。でも、それはちょっと違う。句会の句は「途中」の句〔*〕。それだけで俳句を語ろうとするのは、楽屋話しか聞いたことのない人が落語を語るようなものだろ う。

自分の視野がはたしてこれでいいのか。ときどき確かめてみることが必要です。高校の文化祭のステージに出てきた数バンドを聞いただけでロックを語る人はいない。ところが、俳句の場合、それに近いことをしてしまうようです。

〔*〕句会の句、まだ途中の句はいわば初稿。これを、どう捨てて、あるいは、どう温めて、あるいはどう改変(推敲その他)するか。投句(初出)と発表句(最終型)の間にある距離や段差こそが、その書き手の書き手としての価値、言い換えれば「作家性」の重要な部分だと考えるですよ。

七月某日。

妻が立石に住んでいる生徒さんに、「面白い街だよね、京成立石にはたまに食べに行く」と話したら、数日後、その生徒さんが、「立石の美味しいもの」リストを書いて渡してくれたという。

なんて、かわいらしい生徒さんなんだ!

ところが、そのリスト、ケーキやパンばかり。「いや、私らの食べに行く(飲みに行く)のはホルモン屋とか鶏屋とか、そういうとこなので」とは言えず(妻は甘いものがほとんどダメ)、ありがたく受け取ったという。

ええ話やね。

七月某日。

「はがきハイク」第6号の送り先からの丁重なおはがきに、西瓜と答えた箇所こそが「俳句」である、と。なるほど。

  最近うれしかったこと西瓜  tenki

韻律もなかなか良い。


2012/08/02

五輪とか

このあいだの句会のあと、テレビで五輪観戦。重量挙げのユリア・ローデ選手(私の個人総合優勝候補)が尻餅をついたとき、私たちオッサンたちの心臓に、あの夏の日の鼓動が甦ったです(≫写真)。葉月氏の「あの 瞬間 、世界中から〈萌~〉の声が 何百万と あがったはず」との言は、いかにも。

真剣に勝負する人の顔は、美しいです。


五輪といえば、
サッカーをこんなふうに詠めるのは、俳句の醍醐味。というか、金原まさ子さんの醍醐味。



ナショナリズムの昂ぶりはこの手のイヴェントではいたしかたないのかもしれませんが、イヤな空気も流れます。

七輪と五輪のちがひ秋刀魚焼く  tenki 「くぢら」2009-12-27より(若干の改変)

誰が負けてどこの国が勝ったとか、そんなことより、選手ひとりひとりの表情や挙措の美しさや切なさ、ですね。この期間中の愉しみは。