2014/08/31

■聴き比べはクセになります。今夜は Tighten Up。当然、踊ります。

まずはオリジナル。Archie Bell & The Drells(1968年)。



ドラマーのルックスとか、踊り手のスボンの丈とか、バンドの多数白人がヒッピー風・サイケ風のプリントシャツであるとか、コクだらけです。

参考:スタジオ録音をきれいな音で。≫http://youtu.be/Wro3bqi4Eb8

次は、バーナード・パーディ(dr)中心のセッションで。



手練(超一流スタジオミュージシャン)が爺さんになって余裕のグルーヴを楽しむ。このステージはCDにもなっていて、もう、好きすぎて何も言えないくらい大好きな演奏です。


ちなみに、この「Tighten Up」という曲は、なぜかYMOもカヴァーしています。YMOファンYouTube等で探さないほうが身のためです(ダサダサで泣きたくなります)。

2014/08/30

■聴き比べ:Too Late To Turn Back Now

聞き比べ。ひさしぶりです。

まず、The Chi-lites。1973年のアルバム「A Letter to Myself」収録(ジャケットが涙で滲むシカゴの夕景)。



Cornelius Bros and Sister Rose。1972年の、こちらがオリジナル。



この人たち、知らなかったのですが、歌、シブい。ルックス、ワンダホーであります(参考:テレビ出演の映像)。

2つ聴いてみると、1年しか違わないのに、The Chi-litesのほうがずいぶんと垢抜けて、時代が進んだ感じです。

ついでにインストをひとつ。ジャッキー・ミットゥはジャマイカの鍵盤奏者。ジャケがよろしいですね。アルバムが欲しくなります。音も大好きなテイストです(流しっぱなし用)。

2014/08/29

【承前】俳人さんたちが「口語俳句」という場合の「口語」って、私の考える「口語体」とは別物のような気がしてきた。…あるいは金原まさ子、小津夜景の最近作のこと

このところ「口語俳句」といわれているものの「口語」とは、私からすると「口語体」ではなく「おしゃべり体」とでもいうべきもの。

なんか、話が、私のアタマんなかと嚙み合わないなあ、と思っていたのですよ。

「おしゃべり体」あるいは「会話体」(造語ですよ、為念)。



で、金原まさ子さんは、文語体と口語体(と「おしゃべり体」)を自在に自由に駆使されているように思うので、「おためし小皿料理 munu degustation」(『豈』第56号・2014年7月)からピックアップ。

春陰の綴じ目綴じ目のかんぜより  金原まさ子:文語体

見えるので葱のむこうを視てしまう  同:口語体

あさってからわたしは二階の折鶴よ  同:おしゃべり体


ついでに(というと失礼だけれど)、小津夜景「庭を横切る影」より。

けふ還り逢ふとも知らで黴の家   小津夜景:文語体

うつせみの手に阻まれた椅子がある  同:口語体


と、まあ、いちおうラベル付けをしてみましたが、どれも好きな句。

(この「庭を横切る影」は充実ですね)

ちなみに、『豈』の金原まさ子さんのページ(p16)の対向ページ(p17)には小津夜景さんの「ジョイフル・ノイズ」20句。1と2に分けられた10句ずつは、ぞれぞれおおまかに文語体(的ノリ)と口語体(的ノリ)に区別されているようにも読める。

眠り男の皿に不屈のゼリーかな  小津夜景:文語体

人生のすべてが白玉にもどる  同:口語体

で、

短夜のエレピは捩れあっている  同

…は、ちょっと「おしゃべり体」かな。エレピ(エレクトリック・ピアノ)なんて略語が使われているし。


ゼリー状の睡眠。

魂のかたちした白玉。

こちらも「おためし小皿料理」ですな。BGMはジャズマンがバイトで弾くエレピ。


と書いているうちに、口語体とか文語体とか、どうでもよくなっちゃった。ごめんな。


2014/08/28

■「口語俳句」なんてジャンル、あるんですか?

あるのかもしれませんね。私が知らないだけで。

togetter 口語俳句 2014年8月
http://togetter.com/li/712109

口語的な部品は、文語体をもっぱらとする俳人の句作にも少なからず混入します。口語体をまったく用いない人はごく稀なのではないでしょうか。

一方、口語的なもの(口語的な部品、口語的処理)を、大きな特徴とする俳人もいらっしゃいます。よく口吻にのぼるのはトゥゲッターにも出てくる池田澄子さんや神野紗希さんでしょうか。少し昔(と言ったら叱られるか?)なら《恋ふたつ レモンはうまく切れません》の松本恭子とか?

私なら、こしもゆみこさんも挙げたい。《ひよこ売りについてゆきたいあたたかい》 とかね。

けれども、上に挙げた人たちの句に文語体が登場しないかというと、そうでもない。口語とか文語とかいうのは、句に占めるシェアの問題かもしれませんよ。

それにまた、彼ら/彼女らに、「口語俳句の人ですか?」「口語俳人ですか?」と訊いたら、「はい」と言ってもらえそうにありません。イヤな顔をされるかもしれませんよ。実際、口語、口語、ゆわれるの、ちょっと迷惑かも。

もちろん「口語俳句」で知られる人の句は、句ごとに見ていくと、口語体の効果、みたいなものをはっきり見て取れるようです。でも、それだからといって、「わっ、口語俳句!」と取り立てて言挙げしたりもしませんし(批評の際に、です)、ましてや「口語俳句」という「ジャンル」について、うんぬんされることもあまりないように思います。

トゥゲッターで展開されているのは端から「ジャンル」の話じゃないとしたら、見当違いなことですが、「口語俳句」と4文字、びしっと並べると、どうしてもそういうジャンルや一派があるのかと思ってしまいます。


でもね、こんなことを言っておきながら、なんですが、口語のおもしろさを活かした句のアンソロジーみたいなものは見てみたい気がします。べつに本にしなくてもいいです。

で、付け足しですが、これもまた「口語俳句」なんでしょうか。

柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や 永田耕衣

この「や」は切れ字の「や」ではなく、「そうや、そうや」の「や」ですね。

阿部完市や金子兜太など海程にもたくさん「口語句は見つかりそうです。


テーマの核心でも根本的でも生産的でもないことばかり並べてしまいました。ごめんね。

(「ごめんね」のマイブームがまだ続いております)

2014/08/27

age■「悪魔のように句をつくり悪魔のように飲み且つ喰う」くにたち句会〔8月〕のお知らせ

2014年8月31日(日) 14:00 JR国立駅改札付近 集合

句会場所 いつものキャットフィッシュ

席題10題程度。句会後の飲食もよろしければ(会費アリ)

資料映像

2014/08/25

■非常階段の歌

どこにでもあるものそれはすばらしい夕陽の落ちる非常階段 10key


月曜日は短歌の日です。……(錯乱)

2014/08/22

■備忘録 「未整理の整理箱」的な

http://uncannyzine.com/posts/14123 You're Not The One
@hellboy1101さん経由。多謝多謝。


【回文】「世の中ね、顔かお金かなのよ」
http://news4wide.livedoor.biz/archives/1997501.html


(私的)表面主義俳句宣言のための私的メモ
:柳本々々「脱衣場を抜けるアリス なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句」
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/blog-post_3.html


いわゆる「わたし問題」

なかはられいこさんのブログより。http://soratokito.exblog.jp/20994914/
川柳を書き始めて間もないころ、作中主体である<わたし>は、生活者である<わたし>ととても近かった。でも、わたしたちの蜜月は長くは続きませんでした。一回りしてしまうと、ほんとうに書きたいのはそんなことではない、と気づいたのです。

我妻俊樹という人の短歌が、こわおもしろい。

柳本々々さんのブログより。http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-231.html
我妻さんの短歌のもつこわさの根っこにどうも〈桎梏〉=みもふたもなく結ばれてしまってあることがあるんじゃないかとおもうんですね。

《クレーム処理するの楽しすぎたwwww》
http://alfalfalfa.com/archives/7446419.html

良スレ。仕事のヒント、人生のヒント。


なぜ海外のAVにはBGMが流れているのか。
http://ameblo.jp/motokichi26/entry-11909647189.html

御前田あなたさんのブログより。
AVというのは基本的に設定だけで、物語はどうでもよく、その一瞬一瞬が大切にされる、享受されるので、もしかするとボヌフォワのことばを借りれば、〈俳諧・俳句の感性〉にどこかしら近いところがあるのかもしれないとおもったりします。

AV=俳諧俳句論。これ、とても示唆的。



■大(ひろ)終刊

境野大波さんの俳誌「大」が終刊。7年間全30号は短いのか長いのか。

雪我狂流さん、太田うさぎさんのエッセイもこのところの楽しみの一つでした。どちらもよく存じ上げている方ですが、字になったものを読むのはまた格別です。

終刊号で、うさぎさんは、駅や電車の放送で「ど」が「ろ」に聞こえるという話題。「広くあいております」が「ひどくあいております」に聞こえ、「大江戸線」が「大エロ線」に聞こえるという。

そういえば、先日、御茶ノ水駅の構内アナウンス(女性)のサ行がことごとくタ行に聞こえましたね。「ハクテンノウティロニオタガリクダタイ」

終刊号で「エロ幕府」やらの話題かよ、と思いきや、最後は惜別別へとシメて、ソツなく、巧み。

狂流さんは、海外旅行(もっぱらアジア)に頻繁に出かける先の国々はどこも良いところと悪いところがあるが、それでもキライになった国はない(このへんが狂流さんらしい)という。さて、日本の悪いところは?ということで3点、挙げられている。

1 同性婚を認めないところ
2 マリファナが解禁されないこと
3 死刑制度があること

同意。

2は補足が要るかな。医療への活用は世界的趨勢。
3は変えていくのに時間がかかる。世論は圧倒的に「死刑賛成」らしいし。
1はすぐにでもできる。誰にも迷惑がかからず何も悪いことは起きない。なぜやらないのか、ワケがわからない。



同人誌は、自然消滅も多いのだろう。「終刊」を決意し、「終刊号」と銘打つことの潔さ、ふるまいとしての毅然を感じました。


2014/08/21

■蜃気楼の祖母

はまぐり(蜃)の吐く息(気)が楼閣を為す、という説は魅力的です。「蜃」を巨大なハマグリとする説と竜の一種とする説があるようですが、だんぜん前者を支持したい。竜は実際に見たことがないし、酒蒸しにもできない。それに絵的にね。はまぐりはぴしっとキマる。



星老いる日の大蛤を生みぬ  三枝桂子

「生む」は女性が産むと解したい。蜃気楼を生み出す大蛤を産んだ女性は蜃気楼の祖母ということになるのか。スケールの大きな太母(grandmother)像 ? このへん、句意をどう解するかの難しさもあるが、いずれにせよ巨大な時空を感じさせる句。

掲句は『LOTUS』第28号(2014年8月)より。

同じ作者に、

女だてらに緑蔭に限りを尽す  同

こちらは伝法な人物像。

俳句作者=作中作者にあえて「女性」を見ることも、自分としては「愉快ならば良し」といういいかげんな態度です。 ごめんね。


2014/08/20

■「質問タイム」にびっくり仰天:『川柳ねじまき #1』を読む・その3

「火曜日にはねじをまく」の合言葉で始まったねじまき句会(p12)。そこから生まれた『川柳ねじまき 』、ということで、句会の実況(瀧村小奈生氏による)が8ページにわたって詳細に報告されています。

読んでいておもしろいのは、例えば、《丁寧にかいてあるので迷います》という句で、なかはられいこ氏が「なんで『かく』が平仮名なのかなあって(…)」と指摘。瀧村氏が「言われてみれば、『丁寧』なんて画数の多い字をきっちり漢字表記にしている(…)」と言い添えるくだり。こういう細かく具体的な箇所がおもしろいのです。

私は、表記に凝りはしませんが注意するほうです。可読性や見た目を重視。この句なら、迷わず、《ていねいに書(/描)いてあるので迷います》とします。そうそう、「かいてある」はなんでだろうねえ、などと誌面と会話するように読み進む。

ところで、句会録は、きほん、つまらないと思っています。句会は読むもの・眺めるものではなく、やるものだから。

けれども、この「川柳」の句会録は、そこそこ楽しめました(ところどころ実況の昂ぶりについていけない自分がいましたが)。俳句の場合、選評のプロトコル(手順等)のようなものが自分である程度理解できているので、想定範囲内の展開になることが多い。川柳の句会は、プロトコルの部分で自分にとって新鮮なのかもしれません。

 ●

で、です。びっくりしたのは、作者への「質問タイム」があること。合評がひとしきり終わって作者名が開いてのち、この質問タイムがある。

これは、俳句では、やりません。少なくとも、自分の参加する句会で、これは、ない。


作者が質問に答える、ということは、自解を強いるわけですよね、なんらかに。

互選・合評の句会(ふだん私が参加している句会)では、「その句については、全員が語る権利がある、ただし、作者を除いて」というふうに考えます。句会で自解の機会や過程を設けません。

句は、清記されたとたん、読み手(作者以外の全員)のものとなる。合評で何を言われようが、作者は黙って聞いている。作者が開いてから、読み手のアドバイス等に簡単に反応することはありますが、その際も自解的な文言は、みなさん、避けます。

そして句会が終わったら、その句は作者の手に戻ります。合評でのコメントを参考にするのも無視するも、その句を捨てるのも、改稿するのも、そのまま残すのも、作者が家に持って帰ってから自分で決めること、といったところです(ただし、結社の主宰のいる句会ではずいぶんと違います)。

その17音(前後)が、作者の書いた「すべて」だから、それに足すもの(自解)は1音もない、という捉え方。

こうした考え方は、自分の周囲だけでなく、俳句ではわりあい一般的だと思います。

「質問タイム」や自解は、あったほうがいいとか、ないほうがいいとかいうのではありません。句会それぞれのやり方です。ただ、「自解がある」句会と知ったら、自分は行かないとは思います。


というわけで、「質問タイム」にびっくり仰天したところで、次回に続きますが、あと残っているのは「ねじまき放談 川柳と俳句」。これについては掲載場所を、いまちょっと悩んでいます。ここか、週刊俳句か、その他か。

いずれにせよ、続くことは続きますので、それまでしばしのお別れです。



『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。

■猫もベランダから落ちる

photo by 嫁はん

ムク(♀)は活発な子です。ある朝、外で泣いている。活発すぎて、ベランダから落ちたらしい。左後肢がぶらんとしていて、獣医さんに診てもらうと、果たして骨折。大腿骨がぽっきり。

猫はふつう二階から落ちたくらいで骨折はしません。ムクの名誉のために言っておくと、途中何かに引っ掛かるか何かして落ち方が悪かったのでしょう。

子猫だから手術は避けてギプス。写真だと殊勝にしていますが、安静になどぜんぜんしてられなくて、すぐにモモ(♂)に負けないくらい走り回っております。

猫の運動神経ってすごいですよ。後ろ足1本使えないくらいは何とかします。身躯を少し傾けて、骨折した肢に重さがかからないようにして、走るわ跳ぶわ。

骨がちゃんとくっつけばいいんだけど(それには安静が必要らしいが、難しい)。



2014/08/18

■気ままに飛び石を踏んでいくように句を取り上げますからね、社長~〔社長って誰だ?〕:『川柳ねじまき #1』を読む・その2

『川柳ねじまき #1』(2014年7月20日、発行人なかはられいこ、A5判、本文42頁)から拾い読み。第2弾です。



図書館は無料で息を引き取ります  丸山進

「本を引き取る」と「息を引き取る」。人ン家の、あるいは公民館かどこかの棚の置き物の位置をこっそり動かすような、ことばへのイタズラは、川柳の本分でもあるのでしょうか。俳句は、まさしくそうなのだけれど。ただ、それによって及ぼされる言語的効果はやや違うようです(川柳は現実へのシニシズム、俳句ではしばしばが現実がすっぽりと剝落し、言語へのシニシズムの様相を帯びる)。


わたしたち海と秋とが欠けている  瀧村小奈生

海と秋を欠いているのはごく一般的な現実。海と秋を携えているという把握は虚構的。希求という点では共通だが、現実へと身体を向けるほうがより切迫する。「秋」は絶妙。ほかの三つでは、隠喩的なほのめかしが強く出すぎちゃったり、部品的な不具合が起きる。春は甘すぎるし、夏は海と近すぎるし、冬は表明っぽくなる。


眼裏といういちばん遠いところ  八上桐子

説得性が高い。ポピュラリティと(陳腐でない)ポエジーの両立ということで、このあたりが川柳の水平的広がり(気取って言ってますがつまり、現代川柳が先鋭化していく一方で、広く読者を獲得すること)の可能性かもしれません。《手首から先は鷗になりたがる》《くちびるを読みあっている魚と魚》《そうか川もしずかな獣だったのか》なども同様。

ブレイクスルーとは別に、民生への技術応用も重要。というとイヤな言い方に聞こえるかもしれませんが、ここ、ほんとだいじ。

≫樋口由紀子・金曜日の川柳
http://hw02.blogspot.jp/2014/08/blog-post_15.html


むかしならたぶんここらで髪を切る  米山明日歌

「四国あたりが」30句には「わたし」と(凝った)喩えが多い。これは『ねじまき #1』、あるいは現代川柳の特徴のひとつかもしれません。どちらの要素も、過剰に、かつ競い合うようにジャンル全体にひしめくようになると、息苦しくもなる。その点、掲句は、すらっとした立ち姿で、なおかつ不思議が残る句。


ややこしい話のあとに出るもずく  青砥和子

俳句的と言うと叱られるでしょうか。こういう俳句、好きなんですよね。鋳型といえば鋳型で、私も《猪鍋のまえに複利の話する》などと作って楽しんだ。これがヤリスギなのに対して、この句の「もずく」はまさにお口直し的に美味でオツ。


自分から燃えだす前の発電所  ながたまみ

鮮烈。《yes!とかgo!とか見える顕微鏡》は顕微鏡そのものではなく覗いて見えたものが、と解して、ちょっと心浮き立つ。この2句が突出してお気に入り。全体に理屈っぽい句(冒頭の《目をそらすときだけ開く窓がある》など)も多く、そちらは私にはピンと来ませんでした(もっともこれは先に書いたポピュラリティにつながる説得性と紙一重。単なる好みの問題かもしれません)。


フランスの普通の人のふくらはぎ  二村鉄子

脱力と呼んでいいのだろう(私はこういうのを脱力な句と呼んでいる。脱臼な句も世の中にはあるが、それはまた別の話)。だからどうした的な句に滋味がある。ただし、これは悪食かもしれず(といっても「美味礼賛」的なオーソドキシー志向はまっぴらごめんなので、これで良し)。ほかに《○○の話に○が出てこない》《仮の名を亀と名付けて裏返す》などもお気に入り。


ペンギンのような男で拒めない  魚澄秋来

のっぴきならない感が、理路と外れたところで出現する句はやはりおもしろいわけで、《とても他人事とは思えない折り目》も、そう。一方、全体に掲句以外は、直線的な奇想(って妙な言い方)、理屈っぽさや言明が目立つ。

「言明」もまた、(俳句とは違う)川柳の特徴のひとつでしょう(集中では《黒ばかり着ている人を信じない》が典型でしょうか)。「何かを考えている」人の態度です。俳句は「何も考えていない」人、「この人は何を考えてるんだ?」な人の、いわば寝言のような句がよろしいので(私の趣味もたぶんに加味されての話です)、言明は俳句と相容れない。このあたりが川柳と俳句の大きな違いと、私は見ているのですが、どうなのでしょう。


体から出てくる船のようなもの  荻原裕幸

隠喩の象徴性の重さを避けるための直喩。詩性のテンションをやわらかくイナす効果もあります。《わたしよりふるい切手の糊の味》は切手の経年が味覚を通して「わたし」と比較される楽しさ、気分の確かさ。

祈るのか折れるのか未だ決まらない》《梅と海の間でなにか音がする》での「字」の注視。また、《サ行へとからだをゆるく傾ける》。事や物ではなく語へと傾(かぶ)く句もおもしろうございました。



つうわけで、気ままな散歩のように拾い読むのは楽しいです。日本一無責任な植木等のようなステップだったら、なおのこと。

(つづく)



『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。

■砂浜の歌

パラソルのかつてひらかれひらかれしまま砂浜に風の吹くこと 10key


毎週月曜日は短歌の日です(錯乱)。



2014/08/17

■これもまた人名句である:『川柳ねじまき #1』を読む・その1

『川柳ねじまき #1』(2014年7月20日、発行人なかはられいこ、A5判、本文42頁)を読んでいきます。小分けにします。私の知力体力の関係上。




「黄身つぶす派」30句より。

無茶苦茶でござりますると萩が散る  なかはられいこ




おどろいて通天閣になっている  なかはられいこ


大阪なチョイスが続いたので、気分を変えて。

畳み皺ついた夜空をいただいた  なかはられいこ

cf レモン囓る夜空は大いなる途中  渋川京子
 
雪になるのか棒になるのか鐘の音は  なかはられいこ

cf 涼しさや鐘をはなるる鐘の声  蕪村


(つづく)



『川柳ねじまき #1』は定価500円。
ウェブサイトはこちら≫http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
問い合わせ先もそちらに記載があります。

2014/08/16

■ゆふさり 10句 【転載】

『豆の木』第18号(2014年4月)より。夏の10句。


昔の気分をいま再構成したらどうなるかといった感じの10句。

下段は短文等のスペースなのですが、句を並べました。『けむり』(2011年)以降の句が適当に並ぶ結果となり、これはこれでよかった。ただし、下4つには、つくった時期が2011年以前のものもかなり混じっている。よく言えば「寝かせた」ということ。

写真は、毎回テーマがある。このときなんだったか、忘れた。この写メの中に自分が映っている、みたいな感じかと。

「ゆふさり」の10句組は、行によっては平体がかっている?(校正のとき、もっとしっかり見ればよかった)。下段の「?めば」は「嚙めば」。正字が文字化けした模様。これも自分校正漏れ。校正のとき何を見てたんでしょうね。ボケボケで、ごめんよ。

■また以前のように拾い読んでみようという気になってきました

以前、ウラハイで、「ネット拾読」という記事を不定期で書いていました。

http://hw02.blogspot.jp/search/label/ネット拾読

読み返してみると、自分で言うのもなんですが、がんばって書いていますね。現在の俳句関連・週俳関連の書きようとはだいぶ違います(現在は、さらにたらっとレイドバック)。

2012年2月2日を最後に更新していません。なぜ、コレを書かなくなったのかを思い出してみると、ひとつには、ネタが見つからなくなったこと。かつては俳句関連のブログがいくつか稼働していたものですが、もうほとんど誰も書かなくなりました(SNSへ移行という部分もありますね)。

けれども、これは、自分が見つけられなくなっただけかもしれません。

で、コレをまた再開する気に少しなっています。

不定期だから負担は大きくないでしょう。記事が見つかったら書けばいいし、取り上げるのは1本でもいいし。

2014/08/14

■こんなとき「俺」はどうするべきなのか? 柳本々々のガス栓

なんでこんなときこんなことを思い出すかなぁという瞬間は誰にでも経験があると思います。

塔のぼる一万段目あがるときふいにガス栓思い出す俺  柳本々々

『かばん』(2014年6月号)より。

そのときどうするかは、人によってさまざまです(私は9,999段を引き返したりしません。「爆発してしまえ、俺の部屋」と思うことにします)。

ただ、人それぞれに次の行動を決定する前、この思い出してしまった、気づいてしまった「一瞬」には、なんとも名状しがたい心の状態がある。この歌はその瞬間を詠んでいます。

わっ。

ぽけー(「エポケーとはポケーっとなること」とほとんどの日本人は理解している)。

ううむ。

そのへんやそのほかの言語以前の何かが到来し、同時に「俺」を包み込む。



ところで、私はガス爆発を間近で聞いた(見た)ことがあります。19歳か20歳の頃、道をぶらぶら下宿に向かって歩いていたとき、ものすごい音がした(ほんとにものすごいです)。音のしたほうを見ると(若いから運動神経がある、首が素早く動く)、路地の数十メートル先の家の窓から噴煙か何か爆発の名残(零点何秒か後の名残)。

その夜、その話を友だちにしたところ、「ガス爆発って、ガス代、どれくらいかかるのだろう? 考えるだけで怖い」。って、そっちの怖さに、即座に持っていかれてしまい、ううっ、コクの深い話をしている、と思ったことでした。下宿暮らしにおける「ガス代」のリアル。

『かばん』のそのページには、

図書館のまだひらかれぬ戯曲からひかりが漏れる生殖の午後  同

などもあり、なぜか、自分の若い頃のことを思ってしまいます。図書館や戯曲を親しくしていたという意味ではなくて。

あるいは、こんな歌。

「そうだ、京都行こう。」をゆめみる日常に牛丼などが横でつゆだく  同

西荻の松屋(吉野家ではないのですね)で京都を夢見ることはなかったのですが(だってガス爆発体験の1年前は京都にいたし)、この「横」は、「俺」の「横」ってことでしょうから、この「横」感、すこぶる付きの「横」感は、なんだか実感なのですよ。


せっかく部屋に『かばん』が1冊あるので、ときどきそのなかのこと(短歌や記事ってことです)を書いていくかもしれません。ごめんね。

(ごめんね、が自分の中で流行中) 

2014/08/13

■花火を内側から見ると



パロット社の超小型無人航空機で撮影。このヘリコプターは欲しい。


  それぞれに花火を待つてゐる呼吸  村越敦


2014/08/12

■ドクター・ジョンによるデューク・エリントン



洗練の極致のような曲と演奏(↑)。誰が歌っても泣ける(↓)。一家に一枚的アルバム。





承前≫ドクターとプロフェッサー
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/07/blog-post_30.html

2014/08/11

■くりかへしの歌

毎日がくりかへしトム・ジョーンズのポップチューンのサビとおんなじ 10key


毎週月曜日は短歌の日です。……(錯乱)




2014/08/10

■尻子玉句会は実在した!〔句会の2文字を抜くと東スポっぽいですね〕

尻子玉句会に持っていくのは、きほん5句。「妄想」縛り、ということなので、眠くて朦朧(合法ドラッグ)とするなか10句前後が用意できた(どれを投句するかはその場になってから決める)。

句会前

あのですね、おばあさんシリーズ、おじいさんシリーズというのがあってですね、継続的に取り組んでいるわけです。

  二階から降つてきたのはおばあさん 10key

ま、それはそれとして、今回は第12回。年4回だから3年が経過したのですね。すごい。私は創設メンバーではなく途中から。

持ち寄り5句+の選評のあと、席題3題(黒、七、帰)。

「句会そのものが妄想ではないのか」という声も多いなか、いいえ、実在するのです。名店フジヤカメラの隣が会場。

この会、不毛性・無毛性を脱して、増毛傾向にある、というのが私の見方。続けてみるものですね。


【参考】わたくし的成果のひとつとして「流体力学」10句
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/01/haikuworks1_31.html
(敬愚さん@フロリダのコメント、めちゃくちゃうれしいぞ。ただし、工作舎うんぬんは誤解?)



今回、葉月さんから「男乳首」というキータームが出てきました。

句会からの帰途、

  はちぐわつや男乳首に風が吹く 10key

(乳首を出して歩いていたわけではありません。為念)

帰宅後、席題でつくった句をノートに記す。

句会後

■B/W版 茗荷谷駅→(徒歩)→春日駅→(地下鉄)→巣鴨駅




















≫承前 ■茗荷谷駅→(徒歩)→春日駅→(地下鉄)→巣鴨駅

2014/08/09

■ゴジラ最高、それ以外はすべてポンコツ、という映画『ゴジラ』

某日、府中のシネコンで『ゴジラ』(2014年/ギャレス・エドワーズ監督)。

原水爆実験のニュース映像(アレンジ)の始まりは期待をもたせるのに、すぐに「大丈夫か、この映画」という気になる。

出てくる俳優は全員がなぜか安物感を纏う。見た目、存在感、演技、どれも悪い意味のマイナー感。「インセプション」では「ほぉ、なかなかいけるやん」だった渡辺謙も冴えない。あのジュリエット・ビノシュもこんな役どころで出なきゃならなくなったのかと涙。「キックアス」のあのオタク若者が兵士らしい筋肉をつけ、俳優の肉体改造はやっぱり凄いとは思うものの、魅力はナシ。

冒頭の原発事故シーンはかなりツラい。まだ3年しか経っていないんだもの。

パニック映画に「家族愛」は付き物とはいえ、なんだかかったるい。

日本がパニックになったら、駐留米軍がこんなにも幅を利かして、治安をコントロールするのか? 自衛隊や警察はなにやっとるの? 安全保障上、日米安保条約上、それってどうなのだ?

太平洋上の水爆実験は、実は実験ではなく怪獣を倒す攻撃だった、というのは、いくらなんでも都合よすぎませんか? とか、壊滅状態の街を兵隊さんたちが走り回るのはいいのですが、小銃を抱える必要はあるんでしょうか?(持ってないと様にならないのか)とか、放射能を食べる怪獣に核兵器を使うって、米軍司令部、どこまでバカなんですか? とか、いろいろとあきれます。

そんなこんなで、もう帰りたいのですが、ゴジラを観に来たんだから、ゴジラを見るまでは席を立てない。

「はよ、出てこい」「はよ、暴れまくれ」

ところがなかなか出てこない。ちらっと姿は見せるが、きちんとは登場しない。これはつまり、じらし(ティーザー)作戦なのだ。

そして、やっと、全貌を見せるゴジラ。

でかっ!

その感想しかない。すばらしいデカさである。

で、悪者の怪獣「ムートー」と戦う。

(余談ですが、禍々しい化け物の外観は「エイリアン」以降、その線で確定してしまったんですね)

戦うと、ゴジラ、強い強い。

口から凄いものを噴いて、とどめをさす、その瞬間は、ぷっと吹いて笑ってしまう。可笑しいのではない。カタルシスの笑い。



結論的に、ゴジラ、最高!

前半のかったるさも、全篇を覆い尽くすポンコツ感も、すべて、ゴジラの素晴らしさを際立たせるため、と納得する。

というわけで、どれもこれもダメダメななか、ただゴジラの存在だけがほれぼれするほど光り輝く、という奇跡のような映画でした。

劇場で観て、損ナシ。途中から入っても可。

2014/08/08

■猟奇王 bot が心に滲みる



社会不適応の物語。

しかし、矜持はしっかりと。

背景に小さく描かれた看板の文字にコクがあり、例えば「喫茶ブレインバスター」とか。ただしそのシーンは、当時の単行本をめくっても探し当てられない。 記憶の捏造か、『ガロ』掲載の何かで見たのか。


■俳句の届け方

俳句を世に出す:堀下翔
http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/08/jihyo1.html

句集と俳誌をいっしょに扱うのは、やや無理があると思いますが、どうなのでしょう? 「俳句を世に出す」という意味では同じなのでしょうか? 発信側・受信側双方にとって、かなり違う、というのが実感。

で、なんと! 『はがきハイク』もちょこっと出てくる。
「句集スタイル」にせよネットプリントにせよ(あるいは筆者は読んだことがないけれど西原天気・笠井亞子の葉書媒体『はがきハイク』、年に数回出る雪我狂流のホチキス止め句集など、「出し方」はさまざまにある)、自由な場、新しい表現が可能な(結社誌よりは容易な)場に書かれる俳句が、そこに書かれたがために変な読まれ方をする。もったいない。
『はがきハイク』は、俳誌を気取ってはいますが、なかば私信のように考えていたので(publishingとは言いきれない=俳句世間に向けて発信していない)、こういう脈絡で取り上げていただくのは、かなり意外。

電子書籍や「ネットプリント」等、今日的なスタイルとは対照的な、はがき・郵送というスタイルは最古の部類。事情を漏らせば、週俳の当番をやってる自分にとってアンチ=インターネット、アンチ=デジタルとして、紙,・インク・アナログ・スネールメールへのこだわり。その意味でも、ここに並んでいるのは意外。

「変な読まれ方」も意外。

あまりに意外なので、次号(第10号)は発送先を再検討します。

(「読んだことない」んだから、無視していただくのが一番よろしかった。わざわざ名を挙げて並べていただくほどのものでもない)

ちなみに、私自身は、週刊俳句とかに俳句を10句発表するほうが、よほど「世に出す」感じがあります。プレシャーも含め。

ただし、「世に出す」と言っても、実際には少しだけの人たちの目に届くか届かないかというのが現実。 「届ける」という能動性さえアヤシイ。句は、届くところには届くでしょう、というのが実感。大げさでも悲観でもなく数人に届けば、ラッキー、うれしい(「はがきハイク」はそれが実現できている実感=レスポンスetc があるので続けている)。



ところで、句集なんですが、2~3年後に出したいという考え。木枯さんが5~6年に1冊とおっしゃっていたのが耳に残っている。しかしながら、次の句集は700~800句以上か?てな構想なので、「2~3年後」は無理っぽい。本文紙、字組までイメージがあるのですが(器が決まっている)、中身がまだまだ揃わないことでしょう。10年かかっちゃうかもしれないし、出ないかもしれない。それはそれで楽しい。



なお、上記、堀下氏記事は、以下の箇所が重要。
しかしこの流れにあえてネットプリントの名前を出す必要はない。それでも出てくるのは、ネットプリントという積極的発表のかたちに対する好き嫌いの現われである。こんなふうに、積極的発表に対する印象は、ときに作品そのものへの印象に直結する。それは、俳句の中身ではなく、俳句がどこに書かれるか、という点が読みに関わっていることに他ならない。

『俳句』誌の合評鼎談、あの、主宰やおじいさん俳人、おばあさん俳人には、とても甘く、一方、キャリアが浅いと踏んだ作者にはこまごまとしたダメ出しが多いことで有名で、なぜか、メンバーが変わっても、上や「御同業」への媚び、下へのふんぞり返りが醸し出す空気が変わらないことで有名なコーナー(読んだことないけど、そういう評判)に触れた部分。

読んだことないなら、言うなよ、って? それもそやね。

2014/08/07

■巣鴨からゴジラへ

某日。句会へ。兼題(面・影)2句と嘱目3句が決まりだが、それより多く出す人もいるようだったから、清記を任されて清記するとき、用紙の右に余った5行を埋めて計10句。

無点は2句。

  晩夏なり路面に何か書いてある

「何か」とサボってしまったことを反省。

  八月やすぎゃもと少し砕けて言ふ

これはお気に入りだったが、酒席で佐山導師に「こういうのは作る前に捨てるようにしなければ」とたしなめられ、「8月19日の短冊供養に持ってきなさい」。反省。少し変えて、

  ゴジラ来て八月が来て巣鴨かな

ってなわけで、府中のシネコンで「ゴジラ」を観てきました。

オギャア!

ネタバレにならないように、3点だけ。

1)8月6日に観られたのはよかった。

2)これから見る人に「途中で出ちゃダメ」。

3)強い。

■原爆忌とか広島忌とか長崎忌とか

(フクシマ忌とか原発忌とかも、そこに入れていいのかな)

その手の忌日については、俳人さんにも一般にも、いろいろな捉え方、考え方があるようですが、私個人は、見るのもイヤ、という感じです。吐き気がするとまでは言えないけれど、そうとうな嫌悪感。


理由? 理由は、よくわからない、というよりも、理由について解きほぐしたり説明したりする気がない。「ことばの運動神経」「勘」のようなものです。

そう言うといいかげんなようですが、ことばにかかわるとき、まずそこに頼るしかない部分でもある。自分の運動神経や勘を信じるしかないわけです。


2014/08/06

■この句の「俺」は

もうこの世にいない。

http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-194.html


ループ。怖い。


生死はともかく、「俺」の居場所は、「家」に、ない。それはたしかですね。


ところで、この句、「蒲団」なので、『けむり』の中で冬の並びの箇所に入れたと思うのですが、夏の並びに入れればよかったかな?と、ちょっと後悔している句です。

夏のところに置いておけば、「蒲団とあるが、夏の流れだから、外寝(夏の季語)。そうか、捨ててある蒲団に入って眠ったりするのか。『俺のふとん、俺のふとん』とか言いながら」と読んでくれる人がいないとも限らない。蒲団だから冬、というのは、浅はかだったかもな、と。


(句を取り上げていただき、おまけに、こんなに面白い読み物に仕上げていただき、多大なる感謝。この句も「俺」も、おかげさまで成仏できたと思います)


2014/08/05

■2014年7月は週刊俳句関連でずいぶんと仕事をした気分(…錯覚?)

読者の季節・作者の季節 『ににん』第55号(2014年夏号)を読んで ≫読む

走れ変態 9句 ≫読む
 作者自身による解題 ≫読む

〔今週号の表紙〕佃島念仏踊り ≫読む

【レポート】「俳句~近くて遠い詩型」という現代歌人集会のシンポジウムに行ってきました ≫読む

八田木枯の一句 白地着て雲に紛ふも夜さりかな ≫読む


2014/08/04

■消費社会の歌

ボラギノールとランボルギーニ人生に欠かさざるべきものとはいへず 10key


ここは日々の出来事を短歌にしたためていくサイトです(嘘です)。

※わたくしの敬愛する方が、ここに私が書いている歌を見るのが「とても不快w」とのことですので、頻繁にはやりません。ときどきしかやりません。

2014/08/03

■本日はアンリ・カルティエ=ブレッソン忌

「私にとってカメラは、スケッチブックであり、直観と自発性の操る道具であり、そして視覚的な意味において、質問を投げかけると同時に決定をくだす、瞬間の支配者である」といっている。直観と自発性か。
中嶋憲武
http://hw02.blogspot.jp/2013/02/blog-post_6.html

ここで私はカルティエ=ブレッソンの作品を「次のシーンへの『連れ出し』を予感させるオーラ」と「リアルの本質たる非線形性の保守」の好例として挙げている。『決定的瞬間』と題された英語版写真集が世界に与えた衝撃によって、その原題『逃げ去るイマージュ』(à la sauvetteは「鼬ゴッコの」ないし「逃げ回る」が原義)が人々に一時忘れられたことはよく知られる事実だが、彼の作品の重要な特質が、瞬間=永遠性の凝固よりもむしろ「凝固以前のひろがり」にあることは、しばしば指摘される通りである。
小津夜景
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/01/blog-post_25.html




■茗荷谷駅→(徒歩)→春日駅→(地下鉄)→巣鴨駅

茗荷谷駅から春日駅までぶらぶら散歩(吟行)。春日駅で乗車、巣鴨へ。

ポケットカメラの液晶モニターを見ずに撮る(テキトーに手を伸ばしてシャッターを押す)。ヘタクソは、撮ろうとするものを見て撮ってもダメなので、いっそのことファインダーもモニターも見ない。

この日は死人が出そうな暑さ。