2015/04/30

■某日。句会、無事終了。



桜はとっくに散りましたが、桜鯛。


席題10題。

夏はじまる先生の句に季語ふたつ 10key

■函館〔後篇〕









写真1 歓楽街の、トンネルのような一画。上はアパート(マンション)。
写真2 朝市。
写真3 ホテルニュー函館は廃業。保存建造物指定。
写真4 昨年廃業。創業は68年前。
写真5 ピンボケ。デジカメでは貴重な1枚。ファインダーを覗かず、ぶらさげたままシャッターを押す。
写真6 市西部海岸から工場を眺める。
写真7 立待岬の売店の裏。
写真8 立待岬から函館市街を望む。風に吹っ飛ばされそうになりながら。岬は、気分が上がります。

2015/04/29

■函館〔前篇〕










人口はピーク時の34.5万人から27万人台にまで減り、町なかは、歯の抜けたように遊休地(駐車場)だらけ。そのなか観光依存だけが高まる函館。住んでいる人に叱られそうだが、随所に廃墟的な様相。フォトジェニックなこと、このうえない。

写真1 朝5時には目が覚めたので、ひとり散歩の時間もじゅうぶん。※この写真は夕刻17:49撮影。
写真2 事故・失敗から生まれた写真。
写真3 みやげもの。海辺の倉庫(金森)を改装した商業施設内。
写真4 函館文学館裏、倉庫街そば。造りかけで頓挫?
写真5 YAZAWA
写真6 パチンコ屋は、廃墟的景観をも破壊する。ハイパー廃墟。
写真7 木彫等売る店。
写真8 函館国際ホテル。歴史のあるホテルは落ち着きます。華美さはなく、慎ましめ。ロビーまわりが広いのもいい。

2015/04/28

■海と鴉



函館ハーバー猫町ホーボー♪(あがた森魚)。

ですが、猫はそれほど見当たらず、函館は烏賊とカラスとウミネコの町でした。

2015/04/27

■空港から空港へ

空港は、(当たり前ですが)ひろびろとしているから、大好きです。

搭乗の通路の長き夕焼かな  鶴岡加苗

週末、羽田からの便は午前中で、どこにも夕焼はありませんでしたが。

この句には「通路」とありますから、空港搭乗口までの長く歩くそのあいだ、外は夕焼、ということでしょうが、通路の最後、機内へと繋がるボーディング・ブリッジを歩くときまで含めて、夕焼を感じる句です。

ところで、搭乗というのではありませんが、函館空港から羽田に帰ってきたときは、タラップから降りてバス。最近はボーディング・ブリッジが多いので、たまに経験するこのバス移動が、嬉しい。

空港の広さが実感できますし、機体や、空港内ではたらく各種車両を間近にできますから。

実際、車内では、小さな男の子が歓声をあげていました。そりゃ気分がアガりますよね。

なお、そのときは夕刻ではありましたが、夕焼は拝めませんでした。



掲句は鶴岡加苗句集『青鳥』(2014年7月)より。

■とことん菅井きんの歌

薔薇以上月光未満そのへんのところで菅井きんがうなづく  10key


月曜日でっせ。

2015/04/26

2015/04/23

2015/04/22

■「俳句的スタンス」ということ

その日、何をして、どなたがいて、どんなことがあったか。そういうことをまるで憶えていられなくて、困ったものなのですが(単にバカということですが)…

昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。

『川柳スープレクス』の川合大祐さんの記事で、この箇所を読んで、びっくりした。

ええーっ! まるで憶えていない。

お会いしたのか? おしゃべりしたのか? 私は。

川合大祐さんはお名前は存じ上げている。というか、『川柳カード』で選者をやったとき、川合さんの句を3句もいただいている(≫こちら)。 その川合さんと実際にお会いしたことがあり、お話までしたというか? 私は。

こうなると、もう軽い記憶喪失ですね。

記事には続けてこうある。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
スタンス。

これは自分が言いそうなことです。そう思っているので。きっと申し上げたのでしょう。答えに窮して。

(「だな」は言わない。 私が丁寧語を使わない相手はそうとう親しい人だけ。「かな?」は言いそう。自信のないことを言っているので)

でも、次の文言、自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。」は、私の言い方が悪かったのだろう、舌足らずだったのだろう。誤解を招いている。「自分が俳句だと思って作れば、それが俳句」というのは、ちょっと違う。

スタンスというのは、ものごとに接する態度のようなことです。モノの見方でもあるでしょう。身の処し方、身のかわし方でもあるでしょう。

俳句的スタンス。

これがあれば、何をつくろうが、自分にとって「俳句」だと思う、ということです。

季語があるとか、切れがあるとか、五七五音になっているとか、そういうことの以前に、俳句的スタンスがなければ、(自分にとっては)ダメということです。

では、「俳句的スタンス」とは具体的にどういうものか。

以下は自分が考える「俳句的スタンス」ですから、他人様に強要するようなものではございません。

「俳句的スタンス」、さらにいえば「俳句的」とは…

フマジメであること。

野暮ではないこと。無粋ではないこと。

野暮・無粋とは、例えば、俳句世間でのみずからの立場・存在感の上昇に躍起になったり、「権威」めいたものをありがたがったり擦り寄ったり、結社や同人や句会の仲間や先生をベタベタと称揚したり、党派的な言動に終始したり。そうした「俳句的ではないもの」が野暮・無粋(この部分トートロジーは承知)。加えれば、「賞」なんてものもぜんぜん「俳句的」じゃない。

あるいは、ものごとに対するに、余裕をもつこと。

あるいは、人に何かを言うに(つまり句をつくるということですが)、愛嬌茶目っ気を忘れないこと。

ほか、もろもろ。

これらをまとめて、「俳句的」と、自分では思っているわけです。


「俳句的なもの」は、私を救ってくれます。生きさせてくれる。

私は、季語や五七五韻律や切れによって救われるわけではありません(それを楽しむ部分ももちろんありますが、それらはあまり本質的なことじゃないでしょう?)

だから、川合さんとの会話で出たらしい「30音以上の俳句」も、自分にとっては「俳句的」ではあるので、俳句なのです。


まあ、ずいぶん身勝手で一人よがり。他人様には理解してもらえないことですが、正直な話、そういうことなのです。

ちなみに、このブログのタイトル「俳句的日常」も、まさか、俳句をつくる日常、俳句を読む日常、だなんて思っている人はいないでしょう? 

ものごとに対して俳句的でありたい、そう過ごしたい日常。このブログは、そういうことなんです。いまさらながら。 

■奇譚のかけら 久留島元の一句

鳥の巣に鳥がいるとは限らない  久留島元

じゃあ何が?というツッコミ期待のボケネタとして、あるいは波多野爽波《鳥の巣に鳥が入つてゆくところ》 を下敷きとして、パロディ的な(パロディとは言っていない)ありようをもって、微笑を誘う、というところに落ち着くのではなく、怪奇めいた印象を醸しだすのは、どうしてだろう。

作者が狙いどころがソコだからか、あるいは同時に並んだ数句がつくりだす脈絡からなのか。でも、そうとも言い切れない。この句一句のみでも、ネタに回収されないニュアンスを含んでいる。

不思議。

(為念。微笑は、怪奇によっても、もたらされる。問題は微笑の源泉だ)

「鳥の巣」とは、ものごとの(硬い言い方ですが)結節点のような場所です。そこに、裏切りや不明の視点があると、ものごとの流れ全体が奇(あや)に変成する。

句が奇譚のかけら(重要なワンピース)として機能しているのかもしれません。


【追記】

この句、映画の惹句のようかというと、「そんな映画、誰も観ないって!」だし、格言のようかというと……ちょっとその気味はある。西アフリカあたりの。

2015/04/21

■By the Time I Get to Phoenix に「恋はフェニックス」などというフリーダムな邦題を

付けてしまう歴史がわが国にはあるわけですが。

フェニックス(アリゾナ州の町)に着く頃(まで)には…うんぬんが、「恋は不死鳥」。

カバーバージョンがとても多い曲。ジ・エスコーツ(刑務所で結成。アルバムの冒頭には鉄扉か閉まる・開く音)で。




スローテンポがもっぱらで、ジ・エスコーツは異例。

男性が歌うことの多い曲ですが、女性のを。しゃべり(かなり長い)から入るパターン。


2015/04/20

■悠久の菅井きんの歌

百年後二百年後の新宿に不在の菅井きんを悲しむ 10key

地を割りてああ鋼鉄の菅井きんその日の昼はコロッケにする〔*〕

点線で切ればいいのか折ればいいのかここはどうする菅井きんなら

のこと風にめくれる辞書のこと加へて菅井きんのことなど


月曜が勝手にやってきました。


〔*〕version

地を割りて超合金の菅井きん出でしその日の昼はコロッケ

2015/04/17

■消息:俳句関係の

週刊俳句・第416号に「戦争」10句を載せてもらったり。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/04/10_39.html

週俳ではこのところ企画モノ的な俳句しか発表していない気がします。

同じ号に、竹岡一郎句集『ふるさとのはつこひ』について書かせてもらったり。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/04/blog-post_14.html

9の付く日のメール句会・オクンチにときどき参加したり。
http://www3.ezbbs.net/03/0123/

歌仙に参加したり(呼び出しがかかるんす)。
http://8408.teacup.com/namubow/bbs

あいかわらず俳句関係で遊んでいます。

2015/04/16

■桜鯛

塩割つて鯛を取り出すさくらかな  根橋宏次


この4月末、いつものところから鯛の浜焼を取り寄せる予定。

桜は終わったけれど、桜鯛ですな。


身を食す。

皮をカリカリに煎餅状に揚げる。

アラを土鍋に。豆腐とともに食す。

おじや。

鯛は完璧です。


※掲句は根橋宏次句集『一寸』(2015年3月31日/ウエップ)

■俳句とは空中ブランコである

ウラハイに井口吾郎「春の卦か」10句。
http://hw02.blogspot.jp/2015/04/10.html


以前、吾郎句について書いたものを思い出したので、そのリンク。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/07/100_01.html

私たちは言葉のアクロバットを目にする。空中ブランコから手が離れたその刹那、音の秩序が優先されることで意味のタガがはずれ、言葉は宙に放り出される。そしてブランコへと立ち戻るとき、それまでとは別の容姿を備えた言葉の連なりが現れる。天国的な無意味に裏打ちされた意味の再編。(以下略)

2015/04/15

■「特攻」という迂闊な比喩が照らし出すもの

ウラハイの福田若之さんの記事に、匿名氏のコメント。

http://hw02.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html?showComment=1428986291067#c1298496332694671891

まことにクリアカット。
特攻のアモラル性は決してデュオニュソスではなく、むしろ狂ったアポロンによるシステムの贄というべきもので、どちらかというとモラル側にあるといえるでしょう。

福田くんの記事が定期的に載る、こうしたコメントが付く、というそのことだけでも、週刊俳句をやっていてよかったと思うですよ。

ま、そんなムダ話はさておき、句集のあとがきには、ある種の戦術・戦略があっていいと思う。例えば、自分の俳句を(まずいかたちで)説明してしまうのは避ける。それも戦術のひとつ。

竹岡一郎さんの「特攻~」うんぬんは《ドラマチックな比喩》。それで効果を狙うか、用語の迂闊さを避けるか。それは著者の選択です。無意識か操作的かはさておき。

ただ、この場合の「特攻」の比喩は、竹岡さん個人のものであると同時に、集合的/社会的なものでもあります。俳句と俳句関係者がその集合性/社会性に乗っかるとしたら、やはりそれは、匿名氏のおっしゃるように、
アモラルなはずの特攻がなぜモラルになるのか、それは自分をシステムの側に置くか、個人の側に置くかということによるのです。そう考えると、「俳句はシステムの尖兵である」との読みも可能になります。
…ということでしょう。

今回、福田さんは、著者・竹岡さんの「迂闊」で終わらせることなく、読み直していったわけですが、これはまあ、《身を投げ出した実験である、くらいの意味》(匿名氏)であって、比喩が迂闊であったに過ぎないのだと思います。そして、また話題が戻るわけですが、この「迂闊さ」は集合的/社会的なものであること。ここが今回の話題のキモだと思いますね。

おのおのが身を委ねているところのもの(例えば先の引用でいえばシステム)があらわになる、というか、なんというか。それが迂闊というものの(べつだん悪くもない)効能・機能なわけですから。

■いい感じで2015年が

句誌(紙媒体)の常か、4月号にお正月の句が載る。

初乗のやはり眠つてしまひけり  中西夕紀

四日まだ会社は休み散髪す  寺澤一雄


いい感じで年が明けたのですね。


掲句は『都市』第44号(2015年4月号)、『鏡』第16号(2015年4月1日)より。


2015/04/14

■某日、ニースより【補遺】画伯の絵その他



小さいほうは、年賀状で届いた中嶋憲武画伯の版画を額に入れたもの。

大きいほうは、画伯が「置き場所がないから」と言うので預かっている版画。「〈春隣〉とあるので掛けておける期間が短い、鉛筆書きのこのタイトル、消しゴムで消したい」とか、むちゃくちゃなことを申し上げている。そう言いながら、かつ、あくまでお預かりしたものなのに、「私に、くれ!」とも(もっとむちゃくちゃ)。



ところで、小津夜景さんは、画伯の掌編小説「ねむりひめ」のファン。「憲武さんは絵も描くよ」ということで、お見せした2枚。「差し上げますよ」と私(画伯を差し置いて、むちゃくちゃ)。

そんなこんなの夜でもあったのです。

≫画伯の掌編小説がたくさん読めるPDF『日曜のサンデー』はこちら。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/12/ebooks.html


「博士」設定じゃない小津夜景さん

2015/04/13

■某日、ニースより

フランスから一時帰国中の小津夜景さんが来訪。中嶋憲武画伯も合流。

ウラハイの小津夜景さん≫こちら

週刊俳句の小津夜景さん≫こちら


昼ごはんはタイ料理のランチ。満席につき、しばし待つ。裏階段には寺山修司が「よお!」と手を挙げるポスター。


関戸橋で多摩川を越え、多摩市側の川岸。これがめっぽう気持ちよく、散歩。(参考画像≫こちら

ぶらぶらぶらぶら。晩ごはん(手巻き寿司)の材料をいっしょに買い物してから、拙宅へ。


でね、中嶋画伯の呼び名に揃え、以降、小津さんは小津博士と呼ぶことにする(たいした意味はない)。

中嶋画伯が持ってきてくれたどら焼き。美味。

小津博士と中嶋画伯。出奔から突然帰った夫に無言で圧力をかける妻、言い訳が思い浮かばず無言の夫という設定。

カット1


カット2


やがて近恵氏、来訪。

近恵氏が持ってきてくれた苺。美味。

ソファーでポーズをとる中嶋画伯。


ソファーでポーズをとる小津博士。


さらにポーズをとる小津博士。



楽しく夜が更けていったのであります。


■けっこうシャイな菅井きんの歌

日月とスポーツカーと菅井きんいづれも疾うに過ぎ去りしもの 10key


月曜日ですね、みなさん。

2015/04/11

■まあちゃん、句会はだいじよ (まあちゃんて誰だ?)

むかし雪我狂流さんが言っていたことの受け売りだけど、句誌に発表した連作や句集には、みんな「いいこと」しか言ってくれない。それはウソではなくホントのことだろうからうれしいわけですが、わざわざ「つまらない」と言ってくる人はあまりいない。いいと思う句と、つまらないと思う句と、どちらもあるはずで、そのうち「いい」ほうにしか触れてくれないわけです。

そこで、句会です。

句会で句を読んでもらうというのは、とても貴重な経験なのです。無視されたり、ボロクソ言われたり、そんななかで好いてもらえたりするわけですから。

句会って、だいじですね。

そう言ってるわりにあまり出かけていかないけど。

(句会が日常化しないように気をつけています。鮮度が保てるように自制しています=言い訳)。


で、句会がすべて、かというと、そんなことはなくて、一部に過ぎません。句会がなくても句は読めるし句は作れる。

句会はいわば楽屋です。

句会の前に個人の作業があるし、句会の後にも個人の作業がある。最終的にはひとりでつくり、ひとりで決める。

舞台は、やっぱり、句誌なり句集なりの発表の場なのですけれどね。


■ソヴィエト連邦、スロヴェンスコ、ルーマニア

亞子さんからいただいた切手。美しいっす。

2015/04/10

■かひやぐら

つまり自分は、貝櫓(かいやぐら)という故事が好きなのですね。

都でも呑んでゐさうな大蛤   仲寒蟬


以前の記事 ≫蜃気楼の祖母
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/08/blog-post_21.html

掲句は『巨石文明』(2014年1月/角川学芸出版)より。


資料映像 http://www.hokkaidolikers.com/articles/2828

2015/04/09

■とりあえず踊る?


■週刊俳句はなぜここから始まったのかという問題

「東京がなんぼのもんじゃ」という惹句をまとった『関西俳句なう』(本阿弥書店)が話題らしい。

まだ拝見していません。すみません。

興味のある方はこちら↓↓↓



さて、「東京俳句」「東京俳壇」という語がこの世に存在しないこと、そして、この本があえて「東京が」と惹句に謳い、「関西俳句」とみずからカテゴライズしたことで、俳句を超えた《東京・日本・ローカル》という図式が垣間見えるわけですが、それはそれとして、ひとつ、思い出したこと、というか、印象に残ったことがあるので、それを。

 

関西現代俳句協会のイベントにお邪魔して『週刊俳句』についてお話したときのことです(去年の2月だったか?)。質問タイムで、三木基史さんから、「週刊俳句はどうして東京だったのか(東京で始まったのか」という質問が出ました。

どう答えたか正確には憶えていませんが、かなり面食らいました。週刊俳句が東京、という意識が皆無だったからです。

答えるとしたら、「思いついた人間(私)がたまたま東京(近郊)に住んでいたから」くらいでしょうか。

けれどもこの回答には若干ゴマカシが入っています。質問の本意は、「東京にいる人間がどうしてウェブマガジンを思いついたのか、スタートできたか」というものでしょう。この点で、私は「たまたま」とは言い切れない。もし別の地方にいたら、もしアラスカ住まいだったら、週刊俳句を思いついたかどうか。

でも、それも含めて、「たまたま」としか言えない部分がある。

周知の通り、場所を選ばないのがインターネットの特徴です。実際、週刊俳句には、フロリダからロビン・ギルさんが寄稿したし、ニューヨークからぽぽなさんが寄稿したし、ニースから毎週、小津さんが寄稿してくれています。当番(運営)はみな東京とその周辺に住んでいますが、実際に会うことはほとんどない。ここに遠く離れた人が加わっても運営は成り立ち、これまでどおり続いていくでしょう(住んでいる場所よりも人が肝心)。

とはいえ、週刊俳句=東京という感じも理解できます。でも、それは週刊俳句が望んでいることではない。もっと場所に縛られない成り立ちが実現できるはずと思っています。

いつかこのさき、東京じゃないところに住んでいる人も運営に加わること。

東京じゃないところ(例えば関西)でオフ会を開くこと。

くだらない施策に見えようとも、こういうことから、週俳=東京というイメージから脱却していけるかもしれません。

ワールドワイドウェブな俳句マガジン=週刊俳句、ってことで。

つうか、週刊俳句=東京じゃないからね! 私は東京じゃなくて東京西郊だし、福田くんなんか、もっと西で、4月の昨日に雪がばんばん降った八王子なんだから!

2015/04/06

■超シンプルな菅井きんの歌

木星を離れて虚空へと消ゆる菅井きんてふ奇妙なデブリ 10key

ヘケテペケ川の入り日を眺めつつ彼の日の菅井きんを思へり

虚無として菅井きん的現在に積み上げられて
ボックスティシュー


みなさんすでにご存じとは思いますが、毎週月曜日は菅井きんの歌。

2015/04/05

■日本橋室町のライトアップ

巨大な菓子のようです。



2015/04/04

■散歩散歩散歩

某日。

神楽坂下から早稲田通りを千鳥ヶ淵へ、靖国神社から半蔵門へ。風が強く花がさかんに散っているが、まだまだ満開感が残る。新宿通りを四谷まで。

小津夜景さん(フロム・ニース・フランス)と散歩。

地下鉄で新宿御苑前へ。笠井亞子さんの仕事場に立ち寄らせてもらう。

新宿駅へ出て電車で鶯谷駅へ。西念寺へ。佐山哲郎さんたちと根岸のおでん屋・満寿多(激シブ)へ。



翌日。

JR東中野駅集合(月天吟行)。神田川沿いに北上。下落合駅(西武新宿線)へ。私はここで皆さんと別れ、ひとり散歩。

西武新宿線と付かず離れず、神田川と付かず離れず、西へ。中井駅まで。うろうろうろ。

さらに西へ。新井薬師駅まで出て、ここから南下。門前の道をくねくねぶらぶら。JR中野駅まで。

隣駅までコの字に歩いただけだけれど、いやあ、わりあい距離はありましたよ。





2015/04/03

■藪なす梅

『鷹』2015年4月号より。

庭古りて梅も藪なす夕日かな  小川軽舟






2015/04/02

■ちょっと帰郷しておりました

イナカは海の近くです。