いつまで在る機械の中のかがやく椅子 鈴木六林男 1957年
圧倒的に、美しい句。
『円錐』第56号(2013年1月31日)が、見開きで掲句に触れている(3氏による鑑賞)。ほぼ同時期の作「吹田操車場」のことを思えば、「昭和三十一年の末頃から俄に景気が悪くなり、働く場所を失った人々が求職に奔走する一方、勤める人たちも馘首や会社の倒産に怯えていた。この句は、そうした社会の様相を捉えたものである」(矢上新八)といった解釈も、「戦後十年と少しを越えて、生産ラインも社会的秩序も急速に回復しつつある状況のなかで、「かがやく椅子」に象徴される何者かの存在に作者は或る異和と抵抗感を感じた」(味元昭次)といった読み方も、おそらく妥当なものだろう。
けれども、ちょっと釈然としないところも残る。なぜというに、この句、時代状況に限定されるには、美しすぎるのだ。同時に、この椅子、何かの「象徴」であるには、美しすぎるのだ。
数年あるいは数十年といったスパン(すなわち「時代状況」の対象)をはるかに超えて、この句そのものが輝くとき、「機械」や「椅子」は、《何か》の象徴や言い換えなどではなく、人類史と同じ長さの「機械」そのもの、「椅子」そのものとして輝くのであります。
ただし、その「美しさ」が「時代状況」から完全に切り離されたところから生まれるものかどかという点は、微妙なところでありまして、そのへんが複雑なところです。
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