むかしは氷を入れて使っていた冷蔵庫も、電気となっては、いわゆる「季感」は薄い(余談ですが、俳人さんはなぜか「季節感」と言わず「「季感」と言います。微妙な違いがあるのでしょうか。よくわかりません)。「冷蔵庫」は夏の季語ということになっていますが、まあ、そのへんはどうでもよろしい。季語がほしい読者は、他に季語が見当たらなければ「冷蔵庫」が季語と思えばいい、というくらいの話。
冷蔵庫に入らうとする赤ん坊 阿部青鞋
真白な大きな電気冷蔵庫 波多野爽波(1941年)
冷蔵庫の句は、このあたりから始まると見ていいのか。前者の「むむむ」感は尋常ではなく、後者の脱力は特筆に値する。 爽波はどうでもいいような句を山ほど作り、そのなかからいくつかの「素晴らしい〔どうでもよさ〕」が生まれた。
元日の開くと灯る冷蔵庫 池田澄子
冷蔵庫しめてプリンを揺らしけり 雪我狂流
電気冷蔵庫に欠かせない「開閉」の行為は、この2句でほとんどの可能性がカバーできている。
ここでちょっと趣を変えて、景としての美しさという点で、次の句が出色だ。
遠浅にしばらく刺さる冷蔵庫 振り子『月天』(2003年)
どんな批評・鑑賞もムダグチになってしまうような句こそが、最大の快楽を生み出す。口ぽかーんと、この句を眺めている以外に為すべきことがない。
「冷蔵庫」の句は、個人的にひじょうに気になるので、このように自分の中の「冷蔵庫」句を並べて考えてみるわけですが、最近、また新たに見つけました。
誰もゐぬ客間をとほり冷蔵庫 中嶋憲武 『蒐』第12号(2013年7月28日)
もう寝やう凭れて熱き冷蔵庫 野口る理 スピカ(2013年8月1日)
どちらも、とてもいいですね。
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