先日の会で「短歌ヴァーサス」(もはや懐かしい)終刊くらいから既存の歌壇への対抗意識がネット短歌界から退潮したって分析があったけど、俳句はそもそもネット俳句がそういう状況だったことはないねたぶん。逆に「週ハイ」がネットの外の風通しよくしたとかはあるでしょうけれど。
— hashimotosunao (@musashinohaoto) October 21, 2013
インターネットにおける既存俳壇への「対抗意識」。これ、まったく「なかった」というわけではなくて、「週刊俳句」以前のBBS系俳句サイトのいくつかには、はっきりと「対抗意識」、反・既存俳壇、反・旧体制という雰囲気があったのではないでしょうか。
一方、週ハイ(週刊俳句)の「ネットの外」への作用については、おっしゃるとおり、というか、そう思っていただけるのは、当番(運営)の一人としてうれしいかぎりです。
週刊俳句は、つまり、もともと(そして現在も)「非インターネット的」です。
≫現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」 レポート〔後篇〕
上記の記事にある次の発言。
上田 インターネット独自の評価ができるとか、「インターネットは外の世界(現実世界)の価値観に侵されないユートピアなんだ」という考えはルサンチマンに過ぎない。(…)
ルサンチマンはつまらない。そういう認識から週俳は始まっているので、「対抗意識」が希薄なのです。
ルサンチマンから出発したものは、よしんばそれがある種の成功を収めたとしても、ルサンチマンを抱く人(たち)自身の幸せ、溜飲下げetcにしかならず、他人を幸せにしない。
現実へのウラミ・ツラミなどなく(ただし、「もっとおもしろくなるんじゃないか」といった不満のようなものはあって)、始まったのが週刊俳句。だから、既存の秩序、俳句のレガシーとも良好な関係を築こうとして、ある程度それが成し得ているではなかろうかと。
小川軽舟が「インターネットと俳句の『場』」(『俳句年鑑2008年版』巻頭提言)において、「週刊俳句」を「俳句において出来上がった秩序とその外に生まれた新しい動きとの交差点のような「場」を指向しているのだろう」と捉えたとおり、週俳は、リアルとネットの結節点のような場所にある。/言い換えれば、週俳は、インターネット的ではない。リアルの価値を(良く言えば)尊重し、(悪く言えば)利用している(例:有力作家・有名作家への依頼 等)。匿名性を排除する方針(ハンドルネームによる寄稿は原則として認めず)から言っても、週俳は「非・インターネット」的だ。
週俳にとってインターネットは、そこにとどまるべき領分というわけではなくて、この記事(2009年12月)以降、実際、週俳は、ネットの外でいくつかの仕事をしている(いくつか書籍をつくったのがわかりやすい例)。
ネットをツールとしていかに効率的・効果的に使用するか、作用させるかが、週俳の課題。
なので、ふわ~とした雰囲気としてのネット観や、「ネット俳句」などというどこにも存在しないもの、とは遠く無縁なのが週俳なのですね。
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