-ACミランを選んだ本当の理由は
本田 心の中で、私のリトル・ホンダに聞きました。「どこのクラブでプレーしたいんだ?」と。そうしたら、心の中のリトル・ホンダが「ACミランだ」と答えた。そういう経緯があって、ACミランに来ました。
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20140109-1241485.html
本田選手の心の中に棲む「小さな本田」がACミラン移籍という重大事を決めたそうです。洒落たことを言う。好悪は分かれるでしょうが、これまでの日本人スポーツ選手とはひと味違っています。
さて、次の一句。
小瑠璃飛ぶ選ばなかつた人生に 野口る理
句集『しやりり』(2013年12月/ふらんす堂)の掉尾を飾る一句です。
「る理」という名で暮らし、俳句を書く作者は、「小瑠璃」というヒタキ科ノゴマ属の鳥(夏の季語)をそうそう安易には自分の句に使えません。どうしたって〈わたし〉と〈こるり〉は強くて濃い関連性をもって読まれてしまうから。そこで、この句です。第一句集の「〆に持ってきましたか」と、にやり笑うしかない。すばらしい。
(ちなみに、八田木枯さんに「木枯」の句がどのくらいあるのか。全句集をめくってみた。なかなか使えないだろうと想像していたが、10句あった。ただしいずれも「木がらし」の用字)
木枯さんの10句の内容には〈わたし=八田木枯〉との関連性はあまり見いだせません。季語としての木枯はかなり一般的だし、それ(自分との関連付け)をやっていたら、作者にも読者にも少々ややこしい事態を招きそうです。
一方、掲句。「小瑠璃」なんて季語はあまり見ないし、句の内容から言っても、作者(野口る理)との関連は明らか。にくい演出です。
ところで、この句にある「選ばなかった人生」については、ちょっと読解に迷うところがあります。
A 選択したわけでもない人生、今の自分が歩んでいる人生
B いまの自分は選んでこの人生を暮らしている。選ばなかった人生があったはず。その「存在したかもしれないが、結果的に存在しなかった私の人生
はじめ私はAで読んだ。選択、意思、予定、そんな自発的なことで人生を積み上げるわけでもない。今の自分は「予定とは違う自分」である。
しかし、そうした諦観みたいなものと、作者(野口氏)は親和するようで親和しない。茶目っ気はあるがクールで(いい意味でも悪い意味でも)理知的な作風の目立つ『しやりり』ではあるが、なんといっても、作者はまだ若い(プロフィールでわかるばかりではない。句のモチーフが若い)。若い身空ですでに予定とは違ってしまうのでは、なんというか、その、ハード過ぎる。
そうしたことを考えているうち、Bの読みになりました。「私があのときああしていたら、違う人生だったはず」という、それは誰にもある思いにちがいありません。
しかし、さらには、AかBか、その二つがそれほど判然と別々にあるのではない気もしてきました。選ばなかった人生を暮らす〈仮の私〉〈存在しなかった私〉と、いま現実に暮らしている〈私=作者〉。この二つは、あんがい近い。
パラレルワールドといったSF的な仕掛け。そうでなくても自己アンデンティティ融解のモチーフは数多い。下世話な例では「世が世なら」なんてこともよく言います。
AでもBでも、どっちでもいいや。「もうひとつの人生」「もう一人の私」に小瑠璃(≒リトル・るり)が飛ぶ。そういう句だと思うことにしました。
小瑠璃は美しい鳥のようです(実際に見たことがないのが悔しいくらいに)。
こんなに美しい小瑠璃が飛ぶ……。小瑠璃はその「人生」を祝福してくれているのか、あるいは無表情にただ過ぎ去るのか。そのへんまではわからないところが、俳句のいいところです。「きっと祝福しているんだ」とわかりやすく気持ちのいい読み方をしてもいいし、しなくてもいい。
悦ばしく美しい。残酷に美しい。その二つもまた、それほど隔たったものではなさそうですから。
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