俳句は、結社や句会や季語や一物仕立てや二物衝撃や切れ字や句集や総合誌や無季や多行や自由律や芭蕉や新興俳句や前衛や伝統や写生やなんやらかんやらというものとかかわらざるを得ないのだろうかと、ふと思うたびにすごく悲しく追い詰められた気持ちになることがある。なぜだろう。
— 田島 健一 (@tajimaken) 2013, 12月 23
悲しいって、よくないですよね。追い詰められるのはよけいに。
じっさいのところ、
「結社や句会や季語や一物仕立てや二物衝撃や切れ字や句集や総合誌や無季や多行や自由律や芭蕉や新興俳句や前衛や伝統や写生やなんやらかんやら」
すべて、どうでもいい。
じゃあ、何がどうでもよくないか、俳句で何が大事かというと、
野暮じゃないこと。
です。
人それぞれでしょうけれど。
最近「誹風柳多留」(川柳の話になってしまうのですけど)読み直して気付いたんですが、ヤボって「家暮」(暮れになっても家に居る)ってのが元らしい(本当か?)。江戸っ子は宵越しの金は持たねえって奴ですかい? だから何だって話なんですけど。
返信削除>江戸っ子は宵越しの金は持たねえって奴ですかい?
返信削除いいえ、ちがいます。
貯金は少しはあったほうがいいです。