『西山:この方は「これから俳人」という感じですね(笑)。』(「俳句」7月号/合評鼎談)。 pic.twitter.com/6nd0Th4imK
— ホメスウィートホメ (@rockets_yamada) June 27, 2013
上田信治「時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって」(週刊俳句・第323号)にも取り上げられています。
(笑)という箇所がキモのようで、これがあるからこそ、ここが「燦然と輝いて」(上田信治)見える。
これがただ「この方は「これから俳人」という感じですね」だけなら、そのまま受け流す箇所でしょう。あるいは、「この方は「これから(が期待される)俳人」という感じですね」と、省略を補って読むことも、(前後の文脈をある程度無視すれば)できなくはないのですが、(笑)があると、そうは読めない。
ところで、この(笑)、対談記事、座談記事にはお馴染みで、そうとうに古くからごくごく一般的に用いられる。これがないとニュアンスが間違って伝わることもあり、なくてはならない編集処理ともいえる。どんな表情でセリフを吐いたか等、文字だけではどうしても伝わり切らないので。
例えば、過去、週俳に掲載された「『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会(3)」には、(笑)が19回登場します。
あらかじめ相談の余地を作っておいたわけです。相談の余地があるということは、編集部の介入する余地もあるということで(笑)、場合によっては若干の相談や調整があった、というかんじです。この(笑)は、「介入」の語のもつ機微を支えているわけで、ここに(笑)が入らないと、ちょっと感じの悪いセリフ、すごいことを言っていることになってしまう(なくても、雰囲気を察し理解してくれる読者はいますが)。
どの(笑)にもすべて機能があるとはいいませんが(それほど必要ではなく手が滑って(笑)を入れてしまうこともある)、わりあい大事な道具なのですね。
そこで、はじめの(笑)ですが、この一発で、発話者の、さらにいえばその場に蔓延する「したり顔」のようなものが如実に伝わる結果になってしまった(全体の流れとは無関係に、というのが怖ろしいところです)。
ああいう場(俳句総合誌!の合評!)では、どうしても「したり顔」が出やすい状況でしょうけれど、これは他人事ではない。他人の句を評するとき、誰もが陥りやすい。 自戒を込めて、というやつです。
なお、インターネットのコメントでも、(笑)というのをよく見かけます。掲示板ではお年寄りほど、これをよく使うという傾向が見えたものですから、wwwなども使ってみたりしますが、これはこれで難しい。雑誌の縦組では使えませんし。
それでは、と、
この方は「これから俳人」という感じですね(*^▽^*)
顔文字を使ってみると、愛嬌があっていいのですが、縦組ではやはり無理です。
というわけで、これからも雑誌記事から(笑)がなくなることはなさそうです。
(つづく)
【余談】
合評、そして上田信治さんの記事にある、
白梅と思ふ拙き木と思ふ 生駒大祐
からは、どうしても、
咲くまでの梅を不思議な木と思ふ 正木浩一
を思い出す。だから、悪い(類想とか)というのではまったくなく。
見ようとしているものが違うかもしれないが(あるいは近いかもしれない)、視線のありように共通したものを感じる。
個人的には、「拙き」よりも「不思議な」を採るし、調べも後者がメロー感やビート感で優ると思う。(いや、ここはやはり「思ふ」でしょう? という茶々、許す)
●
2 件のコメント:
咲くまでの梅を不思議な木と思ふ 正木浩一
意識していたわけではないですが、深層では覚えていたのかもしれません。とても良い句ですね。
意識したら、別の設えになるだろうから、意識したとは思いませんでしたよ。
「咲くまでの~」句は、梅の木との対し方がピュアですよね。この人の句に共通するのですが、そこが泣かせるところ。
不純は不純でステキなのですが、「ピュアを装った不純」「ピュアを気取った不純」が、このところの俳句世間に多いような気がします。
コメントを投稿