≫筑紫磐井さんの記事 【俳句時評】紙の時代
ここに、かなり唐突に、私の名前が2箇所に出てくるんですが…。
私も「俳句空間―豈weekly―」の終刊号で、ウエッブサイトはその時盛り上がっても何も残らない、消え去るのみだ、と書いたところ、「週刊俳句」のさいばら天気から批判を受けたのだが(…)(「さいばら」と昔の俳号のままなのは、まあ、どうでもいい)
「異論」を唱えたことはあるような気がします。異論と批判が違うか同じかは別にして。
「インターネットは、残念ながら(あるいは喜ばしく?)、いつまでも残ってしまうものなのではないですか?」といったことは申し上げた気がします。
(例えば、自分でまるっきり忘れてしまったような書き込みに、google検索のついでに出会ってしまうことって、よくありますよね)
(あるいは、誰も長らく手を入れていない廃墟のようなウェブサイトが数限りなく残り、それがある日、思わぬ読者に出会うこともあります)
でも、これは「残る」の意味が筑紫さんと私で違う、ということのようです。「その時盛り上がっても」という書き方からすると、ね。でも、これは今になってみればの話。
当時は、たくさんの皆さんが「消える」「消える」とおっしゃっていて、それを眺めながら、「この方たちは、パソコンの画面から消えたら、その記事は消えてしまうとでも考えていらっしゃるのだろうか?」と、「それならラクだけれど、残っちゃうからいろんな問題が起こったりするんじゃないのかなあ」と。
で、もう一箇所は、次の、
それが、さいばら天気とウエッブサイトと雑誌の関係の論争をしたときから気になっていた点である。こちらは、困ったことに、まったく記憶にありません。ボケボケの記憶力。
どのようなやりとりだったのか、この記事には、要約も、当該記事へのリンクもないので、たどりようも確かめようもありません。
何かの事情や顛末に言及するとき、最低限の要約が要りますね。あるいは、リンク(という便利な機能)。
なので、現時点では「論争なんてありましたっけ?」とだけ申し上げておきます。
ちなみに、今回の記事には無関係なのですが、わたし、「紙」が大好き。紙もインクも、もう、フェチシズムも込みで、たまらないくらいに好きです。
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