2013/11/09

■入れ替わる 渋川京子の2句

海鼠と〈私〉。虹と〈私〉。

  思わざる長さ海鼠のすべる喉  渋川京子

  冬の虹あれよあれよと紐解ける  同

たくさん並んだ句のなかで、この2句に目が止まり、愛した、その理由。というよりも、それは一瞬の出来事なので、むしろ根拠と言うべきかもしれない。愛する根拠について考えた。

それは「入れ替わる」から。互換のおもしろさだ。

1句目。「長さ」とはきっと「喉」の長さだろう(あるいは「海鼠」という意見もあろう)。それが「思わざる」ものだったという。

それでは、この「思わざる」は誰が「思わざる」なのか。というと、まあ、順当に読めば、「喉」の持ち主だ。

ところが、「海鼠」が「思わざる」とも読める。喉を滑っていく海鼠にとって、その喉は思いのほか長かった、というわけだ。

喉の持ち主と海鼠が、「思わざる」という行為を支点にして、入れ替わる。少なくとも、私には、どちらが行為の主体なのか判然としない(海鼠が「思う」わけがないという意見はとりあえず無視しておく)。判然としないので、ぐるぐると入れ替わる。

2句目。「あれよあれよ」と驚く/呆れるのは誰か? 順当な読みは、作中主体(句の書き手)ということになろうか。

ところが、「虹」が驚いて/呆れているようにも読める(そんな擬人法は無理があるし、つまらないという向きがあることを承知しつつ)。

このとき、書き手と対象(虹)が反転するように、入れ替わる。

 

俳句のなかでは、しばしば、主体(subject)は同定も定位もされない。

自明の前提として「主語(subject)は隠れている、主語が書き手である」とする読みの一方で、それを揺るがすようなことが起こる。

 

海鼠が私(書き手)を、虹が私(書き手)に行為を及ぼす。この反転・逆転、入れ替わり。これは、もう、おもしろいとしか言いようがないではありませんか。

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