2013/12/26

■俳句と教科書

週刊俳句に上田信治さんの時評「2013年の角川「俳句」から記事4つ「年鑑」から1つ」。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/852-2013-4-1.html

この後半、俳人協会の「俳句の取り上げ方に対する要請(俳句の季語および五七五定形の厳守)」(1999年)に触れた座談会のくだりで、『Iv Σitu(インサイトゥー)』第2号(2013年2月)でこの記事を読んだ当時に感じた「ひっかかり」を思い出したのでした。

(話はそれますが、「インサイトゥー」という誌名を聞くたびに、狩野英孝の「スタッフゥー、スタッフゥー」の言い方をしたくなるのは私だけ?)

座談会の途中で俳人協会側(藺草慶子氏)の説明を聞いたその部分は、信治さんのまとめを使わせていただきましょう。
1 要望書を文部省に送ったという投書が朝日新聞の「声」欄に送られたそうだが、それは間違い。文部省には 送っていない。

2 ある会社で非常に偏った教科書が作成されつつあるという話が伝わってきた(どういうものかは確認していない)。そのことから、今後の子供たちへの影響力を危惧し、小学校と中学校の教科書会社に要請書を送った。

3 じっさいに送った要請書の文言を今回確認するために、当時の委員長、西嶋あさ子さんに依頼したが、現時点では見つからなかった。
1と2はつまり、要望書の宛先が「文部省」ではなく「教科書会社」だったということ。政治家や関係省庁に団体・組織の利益のために働きかけるのを「ロビイング」と呼び、企業に対する場合は単に「圧力」と呼びます(「圧力団体」という語は古くから浸透しています)。

圧力という行為が(一般に)正当か不当かはさておき上にある説明は、〈ロビイングではなかった、関係企業に対する「要望」だったというもの。これで「ああ、なんだ、そういうことか」と合点がいったり解決した気になるのはちょっと奇妙な話です。行政・立法向けならダメで、私企業向けならオーケーということでもないでしょう。

「働きかけ」自体が問題なわけです。そこで、その「働きかけ」の内容ですが、3にあるように書面そのものは出てきませんから、細かいことはわからない。

(探したけれど見つからないってのは、一般的にはちょっととんでもない話ですが、時間も経っているし、これは本当なんでしょう。それに、わざわざ来てくれた藺草さんへの礼儀もありますから、座談会のその場でそれ以上追及することもない)

教科書会社は保管しているかもしれませんよ。教科書会社にはこの手の「要望」「要請」は山のように届くと想像しますが、それだからこそきちんと管理・保管している会社がありそうです。本当に現物が見たいなら、そちらに当たってみるのも一手です)

書面がない以上、どのような言い方だったか、文言が強硬かそうでないかはわかりません。座談会も上田信治さんも「書面」にある程度関心を向けているようですが、そこにはあまりこだわらなくていいのではないかという考え方もあります。例えば、やわらかい言い方、婉曲な要望だったら、「まあ、いいんじゃないか」、きつい言い方だったら「ひどい」ということにはならないでしょう。

要旨が問題であって、要旨はすでに判明している(類推できる材料は揃っている)。要旨は、こうです。〈「有季定型」以外の俳句(のようなもの)を多く取り上げた、偏った国語教科書を出そうとしている会社があると聞いた。それはやめていただきたい〉。これでおおむね間違っていないと思います。そこで「こうした要望ってどうなの?」ということが議論されているわけで、書面の「現物」は、あるに越したことはありませんが、なくてもできる議論です(すでに各所で議論されています)。

「偏った教科書」について座談会の藺草さんは、「私は見たわけではないのでわかりませんが、例えば、無季俳句しか取り上げられていない、あるいは(…略…)全部が 子どもの作品であるとか」と説明している(『インサイトゥー』前掲 p52)。こう聞くと、俳人協会でなくても、「この教科書、大丈夫かいな?」と心配になります。気持ちとして理解できます。

ただ、一社・一教科書くらいはそれでもいいのではないかと鷹揚に構えることもできそうなものです。教科書ってたくさんあるんでしょう? その中の一つです。

けれどもそうは行かない。上田信治さんが引いている岡田日郎氏(俳人協会副会長・当時)の「俳人協会賞や新人賞選考のとき、句集に一句でも無季があったら選考対象から外す。一句ぐらいはいいだろうと言ったら崩れていく。「清規」の言葉を具体的にいえば、そういうこと」に倣えば、一社でも許せば「崩れていく」ということでしょう。

こういうのって、まさに統治者・為政者・ 管理者っぽい。反抗分子は一匹も許さない。殲滅するという…。そのへんが反感を買うのかもしれません。

閑話休題。「偏った教科書」を心配するなら、その一社に向けて要望書を出せば済む話でもあります。そうではなく関係各社に向けたのは、一社が特定できなかったのか(噂レベルだったので)、一社だけに向けると「圧力」の色合いが増すという配慮なのか、そこは想像の域を出ません。いずれにせよ、ちょっと時間が経ちすぎている(1999年の話です)。

ただ、かなり根深い問題を含むもので、「俳句」と「俳句のようなもの」(正統や覇権をめぐる争いという様相も呈している)、偏りとは何をもって偏りとするか、さらには教科書の編集権という問題にまで広がります。私にはそのあたりを語る準備も能力もありませんので、ちょっと方向を換えましょう。

俳人には学校の先生が多いと聞きます。そうした教育の現場を知っている方々は、こうしたたぐいの要望、すなわち教科書に対して特定の団体が内容はどうであれ「要望」を伝えるということを、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。

ざっくり言えば、外部からの(大袈裟に言えば)教科書を通した介入について、慎重であるべきとか、いや逆にどんどん要望を出すべきだとか。そのへんのお考えを聞いてみたいところです。

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しかし、それにしても、まあ、この一連の出来事と議論につきまとう「古くからお馴染みの」感。これには吃驚もし、気持ちが萎えもします。

「正統」(カギ括弧付きです。為念)は自分たちであるとし、正統たる旧体制を守ろうとする勢力・党派(いわゆるエスタブリッシュメント)が(彼らにとっての)「逸脱」「異端」に対して攻撃的に行使する排他性、閉鎖性、教条主義、(信治さんも指摘の)フォビア。これとそっくりな事象を、私たちは何度も何度も見聞きしてきたわけで、歴史と政治のステレオタイプにずっぽりハマりすぎだよ、おとっつぁん、という感じです。

というわけで、私自身は、あまり関心はないのですよ。教育とか教科書とか正統の俳句とか。関心がないわりに長く書いてしまったけどね。



〔参考:『インサイトゥ』側から、橋本直さん @musashinohaoto のツイート〕





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