A 古いタイプ=他人思い=情で動き、義を重んじる=日の目を見ないor敗残寸前=いいやつ
B 新しいタイプ=自分勝手=行動や態度が現金=チヤホヤされている=ヤなやつ
この2つの相克において、クリント・イーストウッドは、監督しようが出演しようが、もう、ひつこくひつこく、「古いタイプ」の勝利を描く。
『人生の特等席』(ロバート・ローレンツ監督/2012年)は、職人気質・昔気質のスカウトマン(クリント・イーストウッド)と娘(エイミー・アダムス)の関係修復物語。いろいろあって、結局、データしか見ない新タイプのスカウトマンやら、大リーガーになって女を抱くことしか興味がない高校生スラッガーやら、ゴマスリで出世欲の旺盛な仕事上のライバルは、「勝負」に敗れ、古いタイプの「いいやつ」らが笑顔で終わる。
王道だ。
クリント・イーストウッドは(そして多くの映画は)、「古いタイプ」のお伽話、「いいやつ」のためのファンタジーを私たちに届け続ける。
現実の世界では、 「新しいタイプ=ヤなやつ」がちゃっかり成功をおさめて、勝者の側に居座り続けることが多いのであって、だからこそ、お伽話やファンタジーが要る。
イーストウッド映画に限らず、アメリカ映画に、「いろいろあっても善良な人々が最後には笑う」映画がかくも多いのは、現実がいかにその逆かの証左なのだろう。
お伽話、ファンタジーは、大事。
『人生の特等席』という邦題に嫌気がさして、見送る人も多そうなこの映画(原題は Trouble with the Curve)、 このところの「イーストウッド・クオリティ」を期待するとガッカリするかもしれませんが、つまらないことはない映画。でも、凡作といえば凡作。いわゆる「中の上」。
ちなみに、ジョン・グッドマン(すごい名前だと思いませんか。邦訳するすると「善人太郎」?)がいい感じです。
2012/11/30
2012/11/28
某日日記 ミュージカルその他
十一月某日。
南房総・千倉町の花の谷クリニックへ。近所のおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんが集まって催すミュージカル(今年の演し物は「サウンド・オブ・ミュージック」)の伴奏を yuki氏がやるのが毎年の恒例のようになってきた。今年は、某俳人1名も同行の三人旅。
ホスピスも兼ねた花の谷クリニックは、出かけるたびにいろいろな話を聞き、いろいろなものを見て、思うこと・考えること多く、それをどうきちんと持ち帰るかが、個人的な課題。道の八百屋さんで買う野菜といっしょに思いや考えを持ち帰る。
十一月某日。
『川柳カード』創刊号が届く。私も会員で、投句したので、楽しみにしていた。
なんで私が川柳誌の会員になったかというと、〈選句を仰ぐ投句〉からずいぶん長いこと遠のいていたので、久しぶりに、という感じだった。俳句はいまさらどこかにその手の投句をする気にはならない。川柳なら一から始めるということだから楽しめるのではないかなあと思ったのだ。
実際、新鮮な気分。この〈選句を仰ぐ投句〉って、独特の愉しさがある。次の投句締め切り(1月末)をメモに書いて壁に貼った。この創刊号では虫と労働をテーマにしたが、次は何にしようかと、今からあれこれ考え始めている。
なお、今回、掲載となった句の中に、投句時のタイプミスで字足らずの句が混じってしまった。痛恨。だが、それも良し。
間違いは、何かを産む。正解は、何かを育てはするが、何も産まない。(って、今回の件とはちょっと違う話か)
十一月某日。
スピカで若い俳人・矢口晃さんが連載している「モノローグ」の内容が凄いと、ツイッターで話題に。
結社「鷹』での日々を主宰・藤田湘子との関係を軸に描く。愛憎劇? 毎日、俳句も一句ずつ付いているんだが、それが目に入らないくらい「独白」部分に迫力がある。たしかに凄い。しかしながら、この「凄い」は、自分の場合、多分に下世話なものだ(矢口さんには悪いが、所詮は楽屋話なんだし、俳句そのものとは無関係だしね)。一歩引いて、こうした師弟関係について、どう考えるのかというと、「人との距離って大切よね」という程度。
ただ、ここまでドロドロとしたものを吐露できる矢口さんという人は、きっと良い人なんだろうし、今回の「モノローグ」は、彼にとってとても重要なことなんだと思う。「いい方向に向かうといいね」は、読者が共通して抱く感想だろう。
ちなみに、この連載を読み始めた直後に、「鷹」の人に会う機会があったので、少しその話題になった。二、三、内情について質問はしてみたが、とりたてて興味深い内容は引き出せず。
南房総・千倉町の花の谷クリニックへ。近所のおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんが集まって催すミュージカル(今年の演し物は「サウンド・オブ・ミュージック」)の伴奏を yuki氏がやるのが毎年の恒例のようになってきた。今年は、某俳人1名も同行の三人旅。
ホスピスも兼ねた花の谷クリニックは、出かけるたびにいろいろな話を聞き、いろいろなものを見て、思うこと・考えること多く、それをどうきちんと持ち帰るかが、個人的な課題。道の八百屋さんで買う野菜といっしょに思いや考えを持ち帰る。
十一月某日。
『川柳カード』創刊号が届く。私も会員で、投句したので、楽しみにしていた。
なんで私が川柳誌の会員になったかというと、〈選句を仰ぐ投句〉からずいぶん長いこと遠のいていたので、久しぶりに、という感じだった。俳句はいまさらどこかにその手の投句をする気にはならない。川柳なら一から始めるということだから楽しめるのではないかなあと思ったのだ。
実際、新鮮な気分。この〈選句を仰ぐ投句〉って、独特の愉しさがある。次の投句締め切り(1月末)をメモに書いて壁に貼った。この創刊号では虫と労働をテーマにしたが、次は何にしようかと、今からあれこれ考え始めている。
なお、今回、掲載となった句の中に、投句時のタイプミスで字足らずの句が混じってしまった。痛恨。だが、それも良し。
間違いは、何かを産む。正解は、何かを育てはするが、何も産まない。(って、今回の件とはちょっと違う話か)
十一月某日。
スピカで若い俳人・矢口晃さんが連載している「モノローグ」の内容が凄いと、ツイッターで話題に。
結社「鷹』での日々を主宰・藤田湘子との関係を軸に描く。愛憎劇? 毎日、俳句も一句ずつ付いているんだが、それが目に入らないくらい「独白」部分に迫力がある。たしかに凄い。しかしながら、この「凄い」は、自分の場合、多分に下世話なものだ(矢口さんには悪いが、所詮は楽屋話なんだし、俳句そのものとは無関係だしね)。一歩引いて、こうした師弟関係について、どう考えるのかというと、「人との距離って大切よね」という程度。
ただ、ここまでドロドロとしたものを吐露できる矢口さんという人は、きっと良い人なんだろうし、今回の「モノローグ」は、彼にとってとても重要なことなんだと思う。「いい方向に向かうといいね」は、読者が共通して抱く感想だろう。
ちなみに、この連載を読み始めた直後に、「鷹」の人に会う機会があったので、少しその話題になった。二、三、内情について質問はしてみたが、とりたてて興味深い内容は引き出せず。
2012/11/24
「7」あたりで絶頂感 高山れおな句集『俳諧曾我』
俳句好きにとって、というより、本好きにとって、たまらないです、高山れおな第3句集『俳諧曾我』。
函のツートンカラーが順当なようでいて冒険的であるとか、おお、分冊かあ!とか、《7 パイク・レッスン》のタイポグラフィーで、一瞬、イキそうになるとか、デザイン方面から、たびたび、また多方向から恍惚感がもたらされると同時に、「俳句」ではなく「俳諧」、俳諧と言って、もっぱら歴史的脈絡に偏向して伝わるのを避けたいなら、「俳句様(はいくよう)テクスト」でも、「俳句のようなもの」でも、なんでもかまわないんじゃないでしょうか、つまり、書いてあること(またエラくアホな言い方ですみません)、そこに書いてあることも、もちろん、いい具合に心地よくさせてくれますぜ。
(オッサンを快楽させても、この句集は、なんも嬉しくないでしょうけれど)
まあ、しかし、(余談とはなりますが) 「俳句」というジャンル語で狭いところに縮こまってしまいつつあるなあと。いま一度、のびのびとさせてあげるということは、あの手この手で必要だなあ、と。そんなこともいまさらながら考えましたですよ。
で、この『俳諧曾我』、書店では手に入らないらしい。いわゆる私家版。著者に直接メールするとか、そういうことらしいです。メールアドレスをここに書いても問題はないと思いますが、ほんとに欲しい人は、なんとしてでも入手されるでしょう。
(自分で勝手に手に入れよ。部数に限りはありそうだから、急がないとね)
外観くらいは知りたいという人は、グーグル画像検索する手がありますね。現時点ですでに顔が晒されているようですし、曽我町子が検索に引っかかってきたりする余得も味わえます。
函のツートンカラーが順当なようでいて冒険的であるとか、おお、分冊かあ!とか、《7 パイク・レッスン》のタイポグラフィーで、一瞬、イキそうになるとか、デザイン方面から、たびたび、また多方向から恍惚感がもたらされると同時に、「俳句」ではなく「俳諧」、俳諧と言って、もっぱら歴史的脈絡に偏向して伝わるのを避けたいなら、「俳句様(はいくよう)テクスト」でも、「俳句のようなもの」でも、なんでもかまわないんじゃないでしょうか、つまり、書いてあること(またエラくアホな言い方ですみません)、そこに書いてあることも、もちろん、いい具合に心地よくさせてくれますぜ。
(オッサンを快楽させても、この句集は、なんも嬉しくないでしょうけれど)
まあ、しかし、(余談とはなりますが) 「俳句」というジャンル語で狭いところに縮こまってしまいつつあるなあと。いま一度、のびのびとさせてあげるということは、あの手この手で必要だなあ、と。そんなこともいまさらながら考えましたですよ。
で、この『俳諧曾我』、書店では手に入らないらしい。いわゆる私家版。著者に直接メールするとか、そういうことらしいです。メールアドレスをここに書いても問題はないと思いますが、ほんとに欲しい人は、なんとしてでも入手されるでしょう。
(自分で勝手に手に入れよ。部数に限りはありそうだから、急がないとね)
外観くらいは知りたいという人は、グーグル画像検索する手がありますね。現時点ですでに顔が晒されているようですし、曽我町子が検索に引っかかってきたりする余得も味わえます。
2012/11/22
くにたち句会11月のお知らせ
お知らせが遅くなりましたが、
11月25日(日) 14:00 JR国立駅南口 集合
句会場所 キャットフィッシュ(予定)
※今回は、拙宅が使えないので、外で飲食しましょう。
初めての方も久しぶりの方もご常連さまも、どなたもよろしくどうぞ。
11月25日(日) 14:00 JR国立駅南口 集合
句会場所 キャットフィッシュ(予定)
※今回は、拙宅が使えないので、外で飲食しましょう。
初めての方も久しぶりの方もご常連さまも、どなたもよろしくどうぞ。
2012/11/21
某日日記 祝婚その他
十一月某日。
yuki 氏が所用で南房総一泊。おみやげがイチジク。それについては週刊俳句・第291号の後記に書いた。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/11/291.html
で、食べてみて、スペインやらどこやらの小ぶりの品種の味の濃いいこと濃いいこと。
十一月某日。
Y口Y夢くんと華子さんの結婚披露宴へ。
俳句関係者多し。テーブルの数が、新郎なり新婦なりの社会関係とかアイデンティ(そんな大げさなもんか?)を示すという説を思いついた。Y夢くんのパーソナリティにおける「俳句度」は3テーブルでありました(テーブルは単位)。
あたたかいかんじの、いいパーティーでした。
十一月某日。
風邪をうつされる。
十一月某日。
福岡県・九州(?)を中心とする同人誌『連衆』第64号が届く。「草紙」15句を載せていただいている。
●
yuki 氏が所用で南房総一泊。おみやげがイチジク。それについては週刊俳句・第291号の後記に書いた。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/11/291.html
で、食べてみて、スペインやらどこやらの小ぶりの品種の味の濃いいこと濃いいこと。
十一月某日。
Y口Y夢くんと華子さんの結婚披露宴へ。
俳句関係者多し。テーブルの数が、新郎なり新婦なりの社会関係とかアイデンティ(そんな大げさなもんか?)を示すという説を思いついた。Y夢くんのパーソナリティにおける「俳句度」は3テーブルでありました(テーブルは単位)。
あたたかいかんじの、いいパーティーでした。
十一月某日。
風邪をうつされる。
十一月某日。
福岡県・九州(?)を中心とする同人誌『連衆』第64号が届く。「草紙」15句を載せていただいている。
●
2012/11/11
2012/11/03
それ、誰やねん? という
このあいだの句会のはじめ、みんなで席題を出し合うときに、「そういえば、みやもとかよのさんは本日、引越しだとか」と誰かが口にしたことから、「宮」というお題が出て、ついでだから、
宮本がカンナの如く立つてをり 10key
と投句。
人に知られた人名を詠み込む(それが人名句)でもないので、名前だけ放り出した格好で、「それ、誰やねん?」ということになり、なかなかうまく行かない。
いのうえの気配なくなり猫の恋 岡村知昭(『俳コレ』収録)
この句が、この手ではよく知られる句だが(って、ほんとか?)、この句のおもしろさを伝えるのは、なかなか難しい。難しいのだが、おもしろさの出発点に「それ、誰やねん?」という《わけのわからなさ》があることは確実。
おそらく、俳句の17音のうち、誰だかわからない人名に4音も使ってしまうという贅沢(ムダとも言う)を許す状況をつくりだすのは、なかなかに骨を折れることなのかもしれない。
じゃあ、短歌はどうなんだ?ということで。
百点を取りしマサルは答案の束もつ我にひたすら祈る 小早川忠義
人名が、俳句と比べると、自然に溶け込む感じ。
小早川忠義さんの歌集『シンデレラボーイなんかじゃない』(2010年9月/邑書林)には、この手の人名が他にいくつかある。
《「目立たない方の鈴木」と呼ばれゐる同窓会の常任幹事》は、機知がわかるぶん、突拍子のなさは消える。むしろ、
書き慣れぬ振込用紙の名前欄「若草太郎」と書き損じたり 同
このほうが、不思議さが残る。
振込用紙になんと書こうとしたんだろう? 答えがわかると、魔法が解けたりして(それはよくあること)。
短歌はあまり読んでいないし、知識もまったくないのですが、出会った本をおもしろく読ませてもらっています。俳句と違って、いわゆる「純粋読者」になれるから、でしょうか。楽しいのですよ。
宮本がカンナの如く立つてをり 10key
と投句。
人に知られた人名を詠み込む(それが人名句)でもないので、名前だけ放り出した格好で、「それ、誰やねん?」ということになり、なかなかうまく行かない。
いのうえの気配なくなり猫の恋 岡村知昭(『俳コレ』収録)
この句が、この手ではよく知られる句だが(って、ほんとか?)、この句のおもしろさを伝えるのは、なかなか難しい。難しいのだが、おもしろさの出発点に「それ、誰やねん?」という《わけのわからなさ》があることは確実。
おそらく、俳句の17音のうち、誰だかわからない人名に4音も使ってしまうという贅沢(ムダとも言う)を許す状況をつくりだすのは、なかなかに骨を折れることなのかもしれない。
じゃあ、短歌はどうなんだ?ということで。
百点を取りしマサルは答案の束もつ我にひたすら祈る 小早川忠義
人名が、俳句と比べると、自然に溶け込む感じ。
小早川忠義さんの歌集『シンデレラボーイなんかじゃない』(2010年9月/邑書林)には、この手の人名が他にいくつかある。
《「目立たない方の鈴木」と呼ばれゐる同窓会の常任幹事》は、機知がわかるぶん、突拍子のなさは消える。むしろ、
書き慣れぬ振込用紙の名前欄「若草太郎」と書き損じたり 同
このほうが、不思議さが残る。
振込用紙になんと書こうとしたんだろう? 答えがわかると、魔法が解けたりして(それはよくあること)。
短歌はあまり読んでいないし、知識もまったくないのですが、出会った本をおもしろく読ませてもらっています。俳句と違って、いわゆる「純粋読者」になれるから、でしょうか。楽しいのですよ。
2012/11/02
ボケる句
村越敦氏の週刊俳句・第288号の後記(≫こちら)、『一億総ツッコミ時代』(槙田雄司)というたいへんおもしろそうな本を書店でふと見つけ、紹介しているのですが、
って、立ち読みで済ませたんかい! 買えよ!
と、こういうのが 「一億総ツッコミ時代」の一例なわけですね。なるほど。きちんとボケて記事をまとめるとは、村越くん、やるなあ、と。
それはさておいても、俳句においてボケというのはいちばんおいしい部分です。ツッコミを受容する箇所を備えた句は、素敵です。そこは愛嬌、お茶目という、俳句にとって最重要な要素に素直につながる。そういう句はもっとあっていいし、もっとみんなで愛していい。
そういえば、
コロッケの上で踊ってしまいます 徳永政二
川柳作家・徳永政二さんの「フォト句集」第2弾、『大阪の泡』(2012年10月25日/あざみエージェント)より。
俳句のボケと川柳のボケ。どう違い、どう同じか、私にはよくわかりませんが、掲句、なにかしらツッコミたくなります。
さてしかし、ボケた句を作るのはいいのですが、作れば作るほど、読者間にツッコミが増殖し蔓延するということもあって、そうなると、「一億総ツッコミ化」がますます促進する。これはどういう事態なのか。
きっと、ボケの稀少化が進み、価値が上昇するのです。
詩情やら叙情をボケへと昇華すること、それが俳句である。
一足飛びにそう結論、太字で結論しておきます。
なお『大阪の泡』はあざみエージェントで購入できるようです(≫こちら)
(…)という内容だったと記憶しています。
って、立ち読みで済ませたんかい! 買えよ!
と、こういうのが 「一億総ツッコミ時代」の一例なわけですね。なるほど。きちんとボケて記事をまとめるとは、村越くん、やるなあ、と。
それはさておいても、俳句においてボケというのはいちばんおいしい部分です。ツッコミを受容する箇所を備えた句は、素敵です。そこは愛嬌、お茶目という、俳句にとって最重要な要素に素直につながる。そういう句はもっとあっていいし、もっとみんなで愛していい。
そういえば、
コロッケの上で踊ってしまいます 徳永政二
川柳作家・徳永政二さんの「フォト句集」第2弾、『大阪の泡』(2012年10月25日/あざみエージェント)より。
俳句のボケと川柳のボケ。どう違い、どう同じか、私にはよくわかりませんが、掲句、なにかしらツッコミたくなります。
さてしかし、ボケた句を作るのはいいのですが、作れば作るほど、読者間にツッコミが増殖し蔓延するということもあって、そうなると、「一億総ツッコミ化」がますます促進する。これはどういう事態なのか。
きっと、ボケの稀少化が進み、価値が上昇するのです。
詩情やら叙情をボケへと昇華すること、それが俳句である。
一足飛びにそう結論、太字で結論しておきます。
なお『大阪の泡』はあざみエージェントで購入できるようです(≫こちら)
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