エンドロール膝の外套照らし出す 柘植史子
コロナ以降、映画館からすっかり足が遠のきました。危機意識よりも予約うんぬんの煩わしさのほうが主因。億劫がっていては愉しみをたくさん逃してしまうことはわかっているのですが……。
俳句関係の記事は、このブログにしても週刊俳句にしても取っ散らかして殴り書くようにしている。いつ頃からは忘れたし、なぜなのかはわからない(たんに気分?)。
紙媒体でも、きほんそれは変わらない。少し前に、『川柳木馬』という同人誌に、八上桐子さんの川柳について寄稿する機会を与えられ、書いたときも、取っ散らかろう、暴れよう、と意識はした。けれども、なかなかそうは行かず、何割かは意図どおりにしても、あとの何割かは、やっぱり「ちょっと正座なかんじ」になってしまった。
退屈なお行儀がちょっと残ってしまった理由のひとつは、苦労したこと、難渋したこと。苦しすぎて、乱暴に書くどころじゃなかった。依頼をお引き受けする時点で、苦しむことは見えていたとはいえ(好きな作家だから何か書きたいが、だからこそ何をどう書けばいのか、とても難しい)、締め切りまでずいぶんと日にちがあったにもかかわらず、締切の前日だかに、「遅れそうです」と泣きを入れた。最後は、自分へのニーズ、つまり川柳をやっているわけではない自分に、まっとうな作品論を期待するわけでもなかろうから、俳句と対照させながら、なんとか書いた。パンクヘッドと呼ぶことにした。新しく買った束子(タワシ)。
サラリーマン川柳の「笑い」を支えているのはおびただしいほどの固定観念と規範意識である。
川柳は人を絶え間ない変身に駆りたてる。川柳のなかで、私は「春の小川」になったり、「気体」になったりする。温度の変化によってかたちを変えていく水のように、少しの条件の違いによって。
≫https://www.facebook.com/tenki.saibara/videos/376408549209594
もうひとつの動画を観ると、5番マートン、6番福留、7番梅野という打順が映り、マートン! なつかしい!
≫https://www.facebook.com/tenki.saibara/videos/376414515875664
その7年後の今日は、雨が降っています。
ラヴ&ピース!
2019年7月25日のブログ記事で取り上げた《無 ホカホカねえさん以外すべて虚無 川合大祐》という句が、いまだに気になってしかたがない。
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