爪楊枝だらけの梨が一つ切れ 浅沼 璞
みんな爪楊枝を使わずに手で摘んで食べたのでしょう。で、最後、いわゆる「遠慮のかたまり」たるひとっ切れに、あまった爪楊枝が針山のごとく刺さっている。
と、経緯を想像するのは、読みの余分。たんに、皿の一景として読むべきなのですが。
掲句は『無心』創刊号(2018年10月1日)より。
ところで、梨は豚肉と合うそうなので、機会があれば(来秋か?)、いっしょに炒めてみようと思います。
2018/11/30
2018/11/27
■業界最小最軽量「はがきハイク」第19号
第19号を投函しました。そろそろ皆様方のお手元に届く頃です。
ご興味のある方は、tenki.saibara@gmail.com までお知らせください。すぐにお送りします。郵送代etc一切無料。
送り漏れも多々。「あれ? 届かない」という方も上記メールアドレスまで。
なお、はがき全体の画像をインターネット/SNSにアップするのはご遠慮ください。なにしろ小さいので全文転載になっちまいます。
ご興味のある方は、tenki.saibara@gmail.com までお知らせください。すぐにお送りします。郵送代etc一切無料。
送り漏れも多々。「あれ? 届かない」という方も上記メールアドレスまで。
なお、はがき全体の画像をインターネット/SNSにアップするのはご遠慮ください。なにしろ小さいので全文転載になっちまいます。
2018/11/23
■冒頭集:アメリカの発見
ぼくらの周囲であらゆる種類の変化が急速に進展してきている。社会上の、政治上の、文化上の、その他どういうふうに呼んでもいいが、とにかくさまざまな変化が起きている。その変化のエネルギーの中心になっているのがロックン・ロール音楽である。そういう信念のもとに『ローリング・ストーン』誌は発刊された。そして、今もその信念に変りはない。実際のところ、第二次世界大戦以降に育ってきたぼくらの数多くの者にとっては、ロック・アンド・ロールは、ぼくらが一体何であり、この国でどういう位置にあるのかということを初めて革命的に見通す目を与えてくれるものであった。ぼくらは、おとなたちに教えられてきたプラスチック製のアメリカ神話の背後に本当のアメリカ合衆国があるのだということを、あのアイゼンハワー/ウォルト・ディズニー/ドリス・デイという表面の背後に本当のアメリカがあるのだということを、初めて知ったのだった。ファンキーで、荒々しく、深く分裂し、絶望的で、意気揚々としていて、豊かな歴史のある伝統に根ざしており、多様な人種から成る本当のアメリカを発見したのだった。(…)
ジャン・ウェナー「まえがき」:『ローリングストーン・インタビュー集1』(三井徹・菅野彰子訳/草思社/1974年)
ジャン・ウェナー「まえがき」:『ローリングストーン・インタビュー集1』(三井徹・菅野彰子訳/草思社/1974年)
2018/11/21
2018/11/18
【お知らせ】11月のくにたち句会
●2018年11月25日(日)14:00 JR国立駅改札付近集合
●句会場所:ロージナ茶房(予定)。
●席題10題程度
初参加の方は、メール tenki.saibara@gmail.com、電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。
●句会場所:ロージナ茶房(予定)。
●席題10題程度
初参加の方は、メール tenki.saibara@gmail.com、電話etcでご一報いただけると幸いです。問い合わせ等も、このメールまで。
2018/11/10
2018/11/09
■読むことは〈そこ〉に出かけること
読むことは、それ(作品でもテキストでも呼び方はなんでもいいのです)が在る/生起する〈そこ〉へと足を運ぶことであって、読者がいる〈ここ〉にそれが届くということではなかったりします。
届くなら、それは伝達。そうしたたぐいのことばも世の中にはたくさんあるのですが、すくなくとも、ここで言おうとする句やら作品やらテキストには、伝達という「用途」が課せられているわけではありません。
ちょっとだけ流れていけば虹二本 清水かおり
〈そこ〉に行けば見えるものがあるわけです。
(逆に言えば、〈そこ〉に行かなくても見えるものなら、読む必要もない)
ところが、読者のなかには(例えば俳句といった伝達とは程遠い分野の読者のなかにさえ)、みずからの立つ「ここ」から動けない人、動こうとしない人が多いようです。
例えば、俳句世間で、「わからない」という文言が気軽に、あるいは尊大な口調で発せられたりするのは、動こうとしないから、〈そこ〉に出かけようとしないから、だと思うのですが、どうなんでしょう。季語の本意がどうの諸品詞の用法がどうのと、みずからの知識の枠内から一歩も出ない批評や評価も、同じように、〈自分〉にとどまっているせいかもネ。
自室の窓から目だけ出して、外を眺めているような読み手は、きっと不幸。
読む愉悦は、みずからを捨てて、自室を出て、〈そこ〉に足を運んではじめて得られるものだと思うのですが。
ラヴ&ピース!
掲句は『川柳木馬』第157・158号(2018年10月)より。
届くなら、それは伝達。そうしたたぐいのことばも世の中にはたくさんあるのですが、すくなくとも、ここで言おうとする句やら作品やらテキストには、伝達という「用途」が課せられているわけではありません。
ちょっとだけ流れていけば虹二本 清水かおり
〈そこ〉に行けば見えるものがあるわけです。
(逆に言えば、〈そこ〉に行かなくても見えるものなら、読む必要もない)
ところが、読者のなかには(例えば俳句といった伝達とは程遠い分野の読者のなかにさえ)、みずからの立つ「ここ」から動けない人、動こうとしない人が多いようです。
例えば、俳句世間で、「わからない」という文言が気軽に、あるいは尊大な口調で発せられたりするのは、動こうとしないから、〈そこ〉に出かけようとしないから、だと思うのですが、どうなんでしょう。季語の本意がどうの諸品詞の用法がどうのと、みずからの知識の枠内から一歩も出ない批評や評価も、同じように、〈自分〉にとどまっているせいかもネ。
自室の窓から目だけ出して、外を眺めているような読み手は、きっと不幸。
読む愉悦は、みずからを捨てて、自室を出て、〈そこ〉に足を運んではじめて得られるものだと思うのですが。
ラヴ&ピース!
掲句は『川柳木馬』第157・158号(2018年10月)より。
2018/11/04
2018/11/02
■消息とか石鹸とか
カッターナイフで石鹸を切る、ひたすら切る、というアカウントをフォローしたり。
≫https://twitter.com/cuttingvids
ウラハイに句集のことを書いてみたり。
≫http://hw02.blogspot.com/2018/10/why.html
まずまずすこやかに暮らしております。
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