撮影日時、撮影場所、不明。忘失。
2014/11/30
2014/11/29
■ふたつの「落選展を読む」を読んだ
作者への愛情は要らないけれど、俳句(というジャンル)への愛情は要る。
それを思いながら、ふたつの「落選展を読む」(週刊俳句・第396号掲載)を読みました。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/2014_23.html
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/2014.html
俳句(というジャンル)への配慮など無用だけれど、作者への配慮は必要だと思いました。
※前者はスタンス、後者は技術。
それで批評が痩せたりはしません。
それを思いながら、ふたつの「落選展を読む」(週刊俳句・第396号掲載)を読みました。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/2014_23.html
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/2014.html
俳句(というジャンル)への配慮など無用だけれど、作者への配慮は必要だと思いました。
※前者はスタンス、後者は技術。
それで批評が痩せたりはしません。
■外階段01 ビニール波板
むかし撮った写真を眺めていると、外階段の写真がときどき現れる。意識しているわけではないが、自分はこれがなんとなく好きらしい。というより、見てしまうといったほうがいいか。
フェチ(いまどきの用語で言えば「萌え」)の対象としてはありふれて凡庸な物件だが、ビニール波板の色がなんだかそそる。
撮影日は2012年9月1日。中目黒から目黒川あたりを散歩(吟行)している途中。
●
フェチ(いまどきの用語で言えば「萌え」)の対象としてはありふれて凡庸な物件だが、ビニール波板の色がなんだかそそる。
撮影日は2012年9月1日。中目黒から目黒川あたりを散歩(吟行)している途中。
●
2014/11/28
■「そうそう、そうなんですよね」という句
虫除けを動かぬ人にふいてをり 森泉理文
そうそう。動かないんですよね、吹いてもらっているあいだ。
ゆつくりと草踏んでをり蝗捕り 同
そうそう。ゆっくり行くんですよね。
草取りのすつかりいやに日曜日 同
そうそう。最初はいいんですけどね。
「そうそう句」「あるある句」は、そればかりじゃあ物足りなくなってくるけれど、気持ちのいいときもあるんですよ。それも俳句の愉しみのひとつ。
掲句は森泉理文句集『春風』(2014年11月/邑書林)より。
そうそう。動かないんですよね、吹いてもらっているあいだ。
ゆつくりと草踏んでをり蝗捕り 同
そうそう。ゆっくり行くんですよね。
草取りのすつかりいやに日曜日 同
そうそう。最初はいいんですけどね。
「そうそう句」「あるある句」は、そればかりじゃあ物足りなくなってくるけれど、気持ちのいいときもあるんですよ。それも俳句の愉しみのひとつ。
掲句は森泉理文句集『春風』(2014年11月/邑書林)より。
2014/11/27
■漢字と平仮名 生駒大祐句の用字はなぜ変態ぽいのか?
「週刊俳句あたりをうろちょろしている若い人」って?
今井杏太郎フォロワーで、フインキの句といえば、生駒大祐さんが思い当たるんだけど……。
というか、今井杏太郎的な感じって、今の俳句世間でメジャーでもメインストリームでもないでしょ?
と、えらい古い話題を引きずるかに見えて、今回は、その話題ではないのです。生駒大祐さんの落選展出品作「こゑ」。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/20142_1.html
なかなか感じがいい。フインキが良い。
で、それはそれとして(この話でもない)、今回は、作品うんぬんとは別に、「用字」のことです。
●
生駒大祐さんの句は、今回の「こゑ」だけでなく、わざわざ平仮名にしたような用字が多い。これ、かなり気になります。
例えば、落選展・タイトルの「こゑ」。《こゑと手といづれやさしき冰水 生駒大祐》。
それから、《雁ゆくも泣く人の面白きかほ 生駒大祐》の「かほ」(spica「かよひあふ」2014年11月5日)。
「声」、「顔」あるいは「貌」ではダメなんですかね?
「手」が漢字で「かほ」が平仮名というところに意味があるのかと読者は立ち止まる、なら、いいけれど、けつまづく。「きかほ」って何?と一瞬思う(思わないか?)。
それに、「こゑ」「かほ」は、鴇田智哉の意匠上の特徴、いわば「鴇田印」という思いもある。
《優曇華やかほのなかから眠くなり 鴇田智哉》《こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 鴇田智哉》
どうしても鴇田智哉句を思い浮かべてしまう。
それは、「春の暮」ではなくわざわざ「春のくれ」とあれば、どうしても三橋敏雄《鈴に入る玉こそよけれ春のくれ》 を思い出してしまうたぐいのことです。
「こゑ」や「かほ」、「春のくれ」が鴇田智哉、三橋敏雄の専売特許とは言いませんが、どうしても、そこに連想が行く。
先行作品を響かせたいという意図があれば、それでいいのですが、自分の句(つまり生駒大祐さんの句)のプラスになるとは、あまり思えないのです。
●
私自身、用字(漢字にするか平仮名にするか)にはかなりこだわるほうだと自認しています。その際の最優先の基準は、視認性・可読性です。
例えば、語が別になっている箇所は、漢字・平仮名で区別されているほうが目に入りやすく、読みやすい。
真桑瓜みづのかたちをしてゐたり 生駒大祐(落選展「こゑ」)
「水」ではなく「みづ」なのは、「真桑瓜水のかたち~」 とすると、瓜→水と並ぶ部分の視認性が悪い。だから、「真桑瓜みづの~」とするか「まくわうり水の~」とする。
ところが、
ゐる鳥が近くにあるはあきの暮 生駒大祐(spica「かよひあふ」2014年11月4日)
これはどうでしょう。読みにくい。ひじょうに読みにくい。
変態ぽい。
視認性を考えるなら、「近くにあるは秋の暮」のほうがいい。
ここはこだわりたいんですよね。
視認性・可読性って、とてもたいせつ。
一方、視認性・可読性という基準ではなく、フインキで用字を決める、用字でなんらかのフインキを出したいという魂胆については、あまり好きになれません。
その意味では、生駒大祐さんは、平仮名でフインキを出そうとしすぎ! と私には映るのですよ。
と、ここまで書いて、「細かいこと言ってるなあ、自分」と思いました。
ごめんな。
(よっしゃあ。ひさしぶりの「ごめん」締め)
今井杏太郎フォロワーで、フインキの句といえば、生駒大祐さんが思い当たるんだけど……。
というか、今井杏太郎的な感じって、今の俳句世間でメジャーでもメインストリームでもないでしょ?
と、えらい古い話題を引きずるかに見えて、今回は、その話題ではないのです。生駒大祐さんの落選展出品作「こゑ」。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/20142_1.html
なかなか感じがいい。フインキが良い。
で、それはそれとして(この話でもない)、今回は、作品うんぬんとは別に、「用字」のことです。
●
生駒大祐さんの句は、今回の「こゑ」だけでなく、わざわざ平仮名にしたような用字が多い。これ、かなり気になります。
例えば、落選展・タイトルの「こゑ」。《こゑと手といづれやさしき冰水 生駒大祐》。
それから、《雁ゆくも泣く人の面白きかほ 生駒大祐》の「かほ」(spica「かよひあふ」2014年11月5日)。
「声」、「顔」あるいは「貌」ではダメなんですかね?
「手」が漢字で「かほ」が平仮名というところに意味があるのかと読者は立ち止まる、なら、いいけれど、けつまづく。「きかほ」って何?と一瞬思う(思わないか?)。
それに、「こゑ」「かほ」は、鴇田智哉の意匠上の特徴、いわば「鴇田印」という思いもある。
《優曇華やかほのなかから眠くなり 鴇田智哉》《こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 鴇田智哉》
どうしても鴇田智哉句を思い浮かべてしまう。
それは、「春の暮」ではなくわざわざ「春のくれ」とあれば、どうしても三橋敏雄《鈴に入る玉こそよけれ春のくれ》 を思い出してしまうたぐいのことです。
「こゑ」や「かほ」、「春のくれ」が鴇田智哉、三橋敏雄の専売特許とは言いませんが、どうしても、そこに連想が行く。
先行作品を響かせたいという意図があれば、それでいいのですが、自分の句(つまり生駒大祐さんの句)のプラスになるとは、あまり思えないのです。
●
私自身、用字(漢字にするか平仮名にするか)にはかなりこだわるほうだと自認しています。その際の最優先の基準は、視認性・可読性です。
例えば、語が別になっている箇所は、漢字・平仮名で区別されているほうが目に入りやすく、読みやすい。
真桑瓜みづのかたちをしてゐたり 生駒大祐(落選展「こゑ」)
「水」ではなく「みづ」なのは、「真桑瓜水のかたち~」 とすると、瓜→水と並ぶ部分の視認性が悪い。だから、「真桑瓜みづの~」とするか「まくわうり水の~」とする。
ところが、
ゐる鳥が近くにあるはあきの暮 生駒大祐(spica「かよひあふ」2014年11月4日)
これはどうでしょう。読みにくい。ひじょうに読みにくい。
変態ぽい。
視認性を考えるなら、「近くにあるは秋の暮」のほうがいい。
ここはこだわりたいんですよね。
視認性・可読性って、とてもたいせつ。
一方、視認性・可読性という基準ではなく、フインキで用字を決める、用字でなんらかのフインキを出したいという魂胆については、あまり好きになれません。
その意味では、生駒大祐さんは、平仮名でフインキを出そうとしすぎ! と私には映るのですよ。
と、ここまで書いて、「細かいこと言ってるなあ、自分」と思いました。
ごめんな。
(よっしゃあ。ひさしぶりの「ごめん」締め)
2014/11/26
■ドラマのなかの雪・暮らしのなかの雪 海野良子句集『時』
雪がほとんど降らない、積もらない、何年かに一度積もって雪達磨をつくっても土の黒が混じったまだらの雪達磨になってしまうという土地に育ったので、降雪・積雪は一種の事件であり、雪とはそのようにドラマチックでありました。
雪は美しい。白いものが空から降ってくるなんてとても不思議じゃあありませんか。視界全部が真っ白になるなんて、尋常じゃありません。実際、雪は、美しいドラマの道具立てに最適です。雪を歌ったポップスも同様。
ところが多くの日々雪を日常として暮らしている人には、雪とは、どういうものなのでしょう? ふだん雪を知らない私たちが見る雪、感じる雪とは違う雪であろうと思います。ドラマのようにロマンチックなだけではない雪。ふわっとしたイメージで捉えられた雪ではない雪。
海野良子句集『時』(2014年10月/邑書林)には雪の句がたくさんあります。
新雪の上にさつそく蔵の影 海野良子
蔵のある家の庭の景か、あるいは蔵のある街の道の景か。降るなり晴れて、影が雪の上にくっきりと現れる。
忘年会その二時間に積る雪 同
宴が盛り上がり酒が進むそのあいだも雪がずっと降っている。生き生きとした生活感があります。
雪を掘り雪掻きの道つくりけり 同
雪深い土地ならではの手順です。数センチ、十数センチの雪を掻いたことしかない人間には思いが至らない。
雪だるま作り大人の声ばかり 同
これはちょっと都会の景としても読めそうです。
送りだすための玄関春の雪 同
毎朝の送りだしとも読めますが、「春の雪」とあるので、春から生活が変わる(例えば上京する)人を送りだすのでしょう。
ドラマや歌のなかでロマンチックに扱われる雪、ふわっとしたイメージで捉えられた雪。
暮らしのなかでいろいろな相貌を見せる雪。
このふたつがあるわけですが、後者のほうがずっと美しいし、むしろドラマ。掲句を読んでいて思いましたよ。
●
2014/11/25
■友人のクリニック+ホスピスに行ってきました。
近所の人たちが毎年この時期に演るミュージカル(オペレッタ)の伴奏の嫁はん。私は運転手です。
今回はタカムラさんご夫妻も一緒。観客のみなさんへのお菓子を焼いていただきましたよ。
1995年クリニック開院、99年ホスピス開院。上のリーフレットは99年に作ったもの(デザインは笠井亞子さん)。15年経った今も、刷り増し刷り増しで活躍していました。
15年前かあ!と時間の経過に愕然となり、そしてしみじみとしてしまいました。
今回はタカムラさんご夫妻も一緒。観客のみなさんへのお菓子を焼いていただきましたよ。
1995年クリニック開院、99年ホスピス開院。上のリーフレットは99年に作ったもの(デザインは笠井亞子さん)。15年経った今も、刷り増し刷り増しで活躍していました。
15年前かあ!と時間の経過に愕然となり、そしてしみじみとしてしまいました。
2014/11/24
■それぞれの菅井きんの歌
水道管ゲームてふものむかしあり菅井きんとは関係ないが
善人が善行を句に詠むそれをダメとは菅井きんも言はない
暗黒の宇宙とびかふもの仮に名付けて「菅井きんの憂鬱」
菅井そのあと数秒をあけてきん菅井ときんがはなればなれに
みなさん、月曜日ですよ。
善人が善行を句に詠むそれをダメとは菅井きんも言はない
暗黒の宇宙とびかふもの仮に名付けて「菅井きんの憂鬱」
菅井そのあと数秒をあけてきん菅井ときんがはなればなれに
みなさん、月曜日ですよ。
2014/11/22
2014/11/21
2014/11/20
■梅と戦艦 利普苑るな句集『舵』の一句
以前、俳句の「取り合わせ」について、《内部知(esoteric knowledge)の最たるもの。これはこうとも、だからどう、とも、誰もうまく説明できないけれど、メンバー(俳人)間では共通認識がふんわりと存在するたぐいの》(:togetter「俳句の作り方 12音+季語?」)と書いたのですが(カッコつけて英語を併記したりして書いたのですが、これは間違っていて、内部でさえアヤシい、つまり共通の認識などないのではないと思ったりしています。
けれども、考えてみれば、内部で了解され、定式が出来上がっているなら、誰かを驚かすことは難しい。了解や定式がないからこそ、異変、突然変異、事件、事故のような語の組み合わせが現れる、それに驚き、快感を味わうのかもしれません。。
海底に巨大戦艦梅白し 利普苑るな『舵』
戦艦と梅の取り合わせに、私は快感しました。
海のものと梅の取り合わせは、金子兜太《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》が思い出されもしますが、「巨大戦艦」は大きさ・質感から言って「青鮫」とは別物です。
(梅と海は誤植になりやすい。これは冗談ではなく、事件、事故を引き起こす契機たりうると思っています)
なぜ海底の景から梅の白さへと展開されるのか? その(私にとっての)唐突さは、やはり気持ちがいい。「作者はどこかにいるんでしょうか?」といった作法上の小賢しい論点などおかまいないしに、美しい句。
なお、句集『舵』には、上掲のような乱暴に美しい句が数的に多いわけではありません。
遠浅の海の音聞き冷奴 同
といった清々しい句が多い(この句も「冷奴」が取り合わせの妙とは言えます。けれども乱暴ではない)。
ほか、気ままに何句か。
葉牡丹を並べて父の家居かな 同
竹林のうねりゆたかに燕来ぬ 同
めつむりてより凍鶴となりにけり 同
けれども、考えてみれば、内部で了解され、定式が出来上がっているなら、誰かを驚かすことは難しい。了解や定式がないからこそ、異変、突然変異、事件、事故のような語の組み合わせが現れる、それに驚き、快感を味わうのかもしれません。。
海底に巨大戦艦梅白し 利普苑るな『舵』
戦艦と梅の取り合わせに、私は快感しました。
海のものと梅の取り合わせは、金子兜太《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》が思い出されもしますが、「巨大戦艦」は大きさ・質感から言って「青鮫」とは別物です。
(梅と海は誤植になりやすい。これは冗談ではなく、事件、事故を引き起こす契機たりうると思っています)
なぜ海底の景から梅の白さへと展開されるのか? その(私にとっての)唐突さは、やはり気持ちがいい。「作者はどこかにいるんでしょうか?」といった作法上の小賢しい論点などおかまいないしに、美しい句。
なお、句集『舵』には、上掲のような乱暴に美しい句が数的に多いわけではありません。
遠浅の海の音聞き冷奴 同
といった清々しい句が多い(この句も「冷奴」が取り合わせの妙とは言えます。けれども乱暴ではない)。
ほか、気ままに何句か。
葉牡丹を並べて父の家居かな 同
竹林のうねりゆたかに燕来ぬ 同
めつむりてより凍鶴となりにけり 同
2014/11/19
■上田信治さんの《「第60回角川俳句賞選考座談会」を読む》がたいへん興味深い。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/20141160.html
上に引いた「まとめ」は、たしかにそうだと思います。なかなかキツい強迫観念です。
でも、「俳句界」が強いられていることに、私(たち)が強いられることもない。私(たち)はもっと身勝手な読者だと思う。好きなものを読み、関心のないことにはとりあえず時間を割かないでおく、という素晴らしい身勝手さ。
●
ところで、傾向がはっきり見えるのは、それに合わせて応募するという人たちには好都合。
横紙破りをやってくれる人はいないのでしょうかね?
いても、私たちの目に触れるところまでは行かないのかもしれません。
今年の選考座談会から、自分は、平成26年の俳句界が強いられている同質性を、次のようなものだと受け取りました。これ、角川俳句賞(あるいは多くの俳句賞)とあえて限定せずに「俳句界」と言ってしまうのは、結果だけではなく、座談会の経緯やニュアンスから導き出されたということでしょうか。
◎内容がよく分かること。不明瞭でないこと。曖昧さがないこと。
◎「いいもの」「いいこと」「いい人であること」が書かれていること。
◎言い方が堅実で、隙がないこと。規範の踏み越えがないこと。
上に引いた「まとめ」は、たしかにそうだと思います。なかなかキツい強迫観念です。
でも、「俳句界」が強いられていることに、私(たち)が強いられることもない。私(たち)はもっと身勝手な読者だと思う。好きなものを読み、関心のないことにはとりあえず時間を割かないでおく、という素晴らしい身勝手さ。
●
ところで、傾向がはっきり見えるのは、それに合わせて応募するという人たちには好都合。
@819tiger @Earan19970301 @yuzuko_yuzuko @mugimaki0616 (意識も何も、そもそも賞の傾向というか、趣旨を確認するのは当然の礼儀でしょう……ガン無視は賞に失礼でしょう……と今更ながら)
— かーりー (@RNJWOHK) 2014, 11月 15
横紙破りをやってくれる人はいないのでしょうかね?
いても、私たちの目に触れるところまでは行かないのかもしれません。
2014/11/18
2014/11/17
■ほらキミにも菅井きんの歌
エルヴィスと上の名で言ふマスターと菅井きんとがカウンター越し 10key
たとうれば暮らしにネヂとネヂまはし有るがごとくに菅井きん在り
ポジティヴな菅井きんでもネガティヴな菅井きんでもどちらでもよし
しろながすくぢらと菅井きんもまた解剖台の上の邂逅
いまキミに何かあげるとするならば例えば菅井きんの歌とか
みなさん、また月曜日がやってきましたね。
たとうれば暮らしにネヂとネヂまはし有るがごとくに菅井きん在り
ポジティヴな菅井きんでもネガティヴな菅井きんでもどちらでもよし
しろながすくぢらと菅井きんもまた解剖台の上の邂逅
いまキミに何かあげるとするならば例えば菅井きんの歌とか
みなさん、また月曜日がやってきましたね。
2014/11/16
■傷のないやかんでお湯を沸かしたら…
…泡はどこから出るのだろう? というギモンにとっつかまった話は、前にしました。
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/11/blog-post_9.html
なんと、答えがわかりました。
小津夜景さん(@NICE, FRANCE)が、沸騰現象の研究者たる「同居人」(引用ママ)に訊いてくれたのです。
1 《100℃では沸かない》
え? もっと温度を上げないと沸かないんですか! 100℃=沸騰は傷(差異)込み、ということ?(このあたりは私の言っていることなので間違っているかもしれません)
2 最初の泡は、《水中の、水の分子の密度が低いところ(分子と分子とが離れているところ)が偶然生じた時、その「穴」から生まれる》
偶然!
偶然なんですね、最初の泡が生じる箇所は。
科学者の口から発せられた「偶然」という語ほど、美しいものはない、とつねづね思っている私は、この答えを聞いたとき(正確にはメールを読んだとき)、身を捩らせて感動しましたよ。
なお、傷のないヤカンの作り方についても教えていただきましたが、それはここでは割愛します(そこもまた大きな神秘ですが、人に言うのは惜しい)。
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/11/blog-post_9.html
なんと、答えがわかりました。
小津夜景さん(@NICE, FRANCE)が、沸騰現象の研究者たる「同居人」(引用ママ)に訊いてくれたのです。
1 《100℃では沸かない》
え? もっと温度を上げないと沸かないんですか! 100℃=沸騰は傷(差異)込み、ということ?(このあたりは私の言っていることなので間違っているかもしれません)
2 最初の泡は、《水中の、水の分子の密度が低いところ(分子と分子とが離れているところ)が偶然生じた時、その「穴」から生まれる》
偶然!
偶然なんですね、最初の泡が生じる箇所は。
科学者の口から発せられた「偶然」という語ほど、美しいものはない、とつねづね思っている私は、この答えを聞いたとき(正確にはメールを読んだとき)、身を捩らせて感動しましたよ。
なお、傷のないヤカンの作り方についても教えていただきましたが、それはここでは割愛します(そこもまた大きな神秘ですが、人に言うのは惜しい)。
2014/11/15
■このうえなく幸せな日
道でアルト・サックスの練習をしているお兄ちゃんが「星に願いを」を吹き始めたこと。
ごちゃごちゃした洋品店の軒先のワゴンに置いてあったアーガイルの靴下(150円)に目が止まり、買ってしまったこと(アーガイルなんてほとんど履いたことがないのに)。
国分寺マンション地下のカレー屋はとっくになくなったはずだけれど、いちおう確かめに降りたら、やっぱりなかったこと。
合皮張りの椅子を並べ、コーヒーはおいしくもまずくもなく、480円といういっそのこと500円でいいのにという値段で、マスターはワイシャツに黒のベストという、初めて入った喫茶店の有線からオルガンのインストゥルメンタルが流れたこと。
道が西国分寺駅のホームの裏まで行ったところで行き止まりだったこと。
などなど。
以上、すべて、2時間ほど用もなく自転車で走るあいだに出会ったこと。
ごちゃごちゃした洋品店の軒先のワゴンに置いてあったアーガイルの靴下(150円)に目が止まり、買ってしまったこと(アーガイルなんてほとんど履いたことがないのに)。
国分寺マンション地下のカレー屋はとっくになくなったはずだけれど、いちおう確かめに降りたら、やっぱりなかったこと。
合皮張りの椅子を並べ、コーヒーはおいしくもまずくもなく、480円といういっそのこと500円でいいのにという値段で、マスターはワイシャツに黒のベストという、初めて入った喫茶店の有線からオルガンのインストゥルメンタルが流れたこと。
道が西国分寺駅のホームの裏まで行ったところで行き止まりだったこと。
などなど。
以上、すべて、2時間ほど用もなく自転車で走るあいだに出会ったこと。
2014/11/14
■ムード俳句の蔓延?
「作者の顔」「生活感」「日常生活のリアル」って、ただの勢いで打ち込みつつ、これらの言葉は句会等でよく言われるけど、実のところ何だろう、どうなんだろう と考えていたのです。クリックしてしまってから失敗したと思いましたとも。ここには必ず突っ込みが来るだろうなと思っていたら、来ました。
http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs/2399
あまりな紋切り度・紋切り具合に、中嶋憲武さん一流のギャグかな?とも考えました。ご本人によると、指の勢い・筆の滑りだった、ということです。
めでたしめでたし。(なにが?)
でね、憲武さんの真意を忖度・憶測したうえで思うのは、「ムードはあるんだけれど……」という句はたしかに多いですね、ということ。
ムード歌謡ならぬ、ムード俳句。
俳句は、気持ち悪いよりは、気持ちいいほうがいいと思いますが、どんな気持ちよさなのかというのが肝心かもしれません。気持ちよさにもいろいろあるから、俳句は面白いのですが。
2014/11/13
■生活感、日常生活のリアル、作者の顔? そんなものが見たいんですか? ほんとに?
承前≫「超結社」の終焉
豆の木賞の結果が出て以降、掲示板が盛り上がっている。
≫http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs
盛り上がりに貢献しているのは、詠犬さんこと中嶋憲武さんの一連の書き込みです。簡単にいえば、今回の受賞作が「つまらない」「こんなんでいいのか?」という異議。
え? どんな20句なんだ? と、受賞作の太田うさぎさん「cloudy」への関心が高まるが、受賞作が発表されるのは来春の『豆の木』誌。現時点で読んだのは豆の木賞の参加者のみ。クローズド。なおかつ受賞作公表まで半年も気を持たせる。これはなかなか良い演出。
私も読んでいない。だから、憲武さんの意見・感想について、何かを言うことはできない。考えてみれば、この掲示板の成り行きは、受賞作を読んでいる豆の木メンバーにしかわからないわけです。にもかかわらず、部外者の私が何を言おうというんだ?
ですから、受賞作の如何は横に置いて、の話です。
憲武さんの書き込みで2点、気になることがあるので、それを書きます。
その1。これは細かいこと(ですが、だいじなこと)です。
こういう作品が賞を取ると、やんごとないお方に「(超結社では)せっかく育てられて来たものを薄め合う結果に終ることが多いのではないかと思っています。もちろん、うまく使い分けている人もいましょうが」と言われる結果につながるのではないかと危惧しております。
http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs/2384
「やんごとないお方」などというボヤカし方・あてこすり方は、 言論として、卑しい。こういうのはやっちゃダメです。
直後に四童さんが補記しているように、これは週刊俳句の記事からの引用。「小澤實が」と、きちんと発言者を明記、出所があるんだから、そのURLも添えるべきなのです。
≫http://weekly-haiku.blogspot.tw/2014/09/blog-post_56.html
これからは気をつけてネ。
その2。 これは微妙な問題です。
憲武さんは受賞作について、次のように言います。
(…)奇麗で気持ちよいのは確かに大事ですけど、問題なのはそこに生活感というか日常生活のリアルというか、作者の顔というか、そういったものが見えて来ない事です。
http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs/2394
生活感、日常生活のリアル、作者の顔。憲武さんはそれらが見たいというわけです。それが見えてこないから、受賞作は不満であると。
これは憲武さんの考え方(さらに言えば俳句へのスタンス)ですから、それに文句を言うつもりはないのです。
でも、これって、紋切り型ですよね。
生活感、日常生活のリアル、作者の顔。
いろんなところで何度も聞いたことがあります。
おまけにセットになってる感。
これらを重視する人たちが分厚く存在することは知っています。けれども、受賞作は、彼らが望むようなかたちで「生活感、日常生活のリアル、作者の顔」を見せようとした作品なのでしょうか。もしそうなら失敗しているから「問題」ということにもなりましょうが、はなからそんなものをめざしていないとしたら、問題でもなんでもない。
ちなみに、私は、シンプルな意味で「生活感」や「日常生活のリアル」などを見せられても(いわゆる暮らしの報告だとか、内面の告白だとか、魂の叫びだとか)、「ふ~ん」としか言いようがない。その脈絡から見える「作者の顔」なんて、どうせ他人と見分けがつかないような「顔」だろうと思っています。
「これが私の顔だ。よく見ろ」って言ってる句に限って、「なるほど。どこにでもあって、見飽きた顔だから、もう、いいです。どこかにしまってください」 ってことになるのですよ、経験上。
この「作者の顔が見えない」「生活感・リアルさが感じられない」といった、型に嵌りきった評言、どうにかなりませんかねえ。古く「人間探求派」まで遡る病である、なんて大げさなことは思いませんが、ひょっとしたら、「その系統」というものがあるのかもしれません。
とはいえ、この「生活感、日常生活のリアル、作者の顔」については、憲武さんと私とで、好みやスタンス、考え方(俳句観!)の違いというだけです。つまるところは。
でも「生活感、日常生活のリアル、作者の顔」が見えないのは「問題」である、「生活感、日常生活のリアル、作者の顔」が見えるべきであるといった規範を、勝手に作り上げられるのは困りものです。
もうちょい微妙で繊細な問題だと思いますしね、リアルとか、作者の顔という問題は。
俳句のあるべき姿についての紋切り型は、言い回しだけでなく、考え方の紋切り型でもなるのではないかと、自分を疑ってみることも必要なんじゃないか、ということです。
感じたのは、この2点。
●
豆の木賞について、知っている範囲で説明しておきましょう(私は計6回参加)。
20句作品を互選で選ぶ。選は6点持ち点制というところがルールとして秀逸。全作品について選評を書くのが大変。
「1句出し」ならぬ「1作品出し」の句会なのだ、と私は解しています。
句会だから、最高点句(受賞作)が決まったら、異議を唱える、採らざるの弁を述べる、というのは当然のことです(句会では高点句ほど貶されたりしますよね)。
だから掲示板での憲武さんの態度は、当然あっていい態度です。ただ、そのコメントについて、2点ほど、あれれ?なところがあった。それをここで、部外者の私があえて書かせてもらったわけです。
その2点を最後に繰り返しておきます。
1 個人名はきちんと明記する。
2 自分のなかの「紋切り型」について、ちょっと考えてみる。
こちらからは、以上です。
2014/11/12
■「超結社」の終焉
「超結社」という語に少なからぬ違和感をもっています。
「結社」を「超」えて、と言いながら、結社を前提とした発想という点では、「結社帰属」と同等かそれ以上に「結社志向」に思えるからです。
と、こういうと、理屈を弄しただけのようにも聞こえるので、具体的な話題へ。
●
「超結社」という語を強い印象をもって受け取ったのは、同人「豆の木」のサイトでした。今もトップページにはその3文字があります(≫http://homepage3.nifty.com/mamenoki-kukai/)。
「豆の木」が始まった1994年当時は、結社が今より強度をもっていたし〔*1〕、結社のしがらみ・束縛も強かったので〔*2〕、それなりに有効だった。結社に所属する当時の若手俳人が、〈結社とは違うところ〉から何かを始めようというモチベーション(結社的閉塞からの脱却)は想像できるし理解できる。貴重なものです。
ところが、時間が経つと、俳句世間全体がちょっと変わってきた。
A 結社出自ではなく、俳句を楽しみ、なおかつ読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現(これは時代の変化だけではなく、広く眺めれば、そういう人たちがいたということかもしれません)。こうした人たちは、結社のしがらみ・束縛とはのっけから無縁です。
B 結社内部にいながら、結社依存というのではなく、読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現。結社所属のしがらみ・束縛を超えて(あるいは、すり抜けて)、結社というインフラを(悪い意味ではなく)自分のためにうまく使える若手の人たちが生まれているように思います。
結果、〈「超結社」というこころざしや運動〉は、〈結社とクレバーにつきあう結社プロパーの洗練(B)〉と〈結社なんて知らねえよという非・結社出自の野蛮(A)〉のあいだで、(ある意味ひ弱に)取り残されていくことになりました。
言い換えれば、結社出自と非・結社出自が互いに反駁・対立することもなく、既存の俳句秩序をいくぶんか更新した現在の景色〔*3〕のなかで、「超結社」の看板はいつのまにか古ぼけてしまった感があります。
●
「豆の木」サイトのトップページには、「1950年以降生まれの俳句実作者の会」との文言があります(この入会条件はすでに撤廃されたとも聞きますが)。
「1950年以降生まれ」といえば、スタート当初は45歳以下。俳句世間では充分に若手ですし、その世代に「超結社」という機運が生まれたのはわかる気がします(当時まだ俳句を始めていなかった私にも)。
けれども、現在は、65歳以下。もう若手とは言えません。当時の気運が20歳ぶん年をとった。20年間、樽に漬けられたままのようなものです。
「超結社」で始まった「豆の木」は、生い立ちはそのままでいいので、現在から未来にかけては、別のキーワードが必要な気がします〔*4〕。
なお、「豆の木」には、これまで80人近い人が参加。私も2006年から2010年まで所属しました。
●
さて、こんな記事を書いたのは、今年の「豆の木賞」が決まり(太田うさぎさん、おめでとうございます!)、その後、豆の木・掲示板(≫http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs) でメンバー間でちょっとした論議があるのを知ったから。
それについては、また別の記事で。
〔*1〕俳句でいっぱしの作者になる、本格的に俳句に関わっていくには、結社所属・結社活動がほぼ必須。また「俳壇」秩序は、結社が基盤。今でもそれは変わらないかもしれないが、俳句世間における結社の存在感は、今とだいぶ違う。
〔*2〕結社のメンバーに結社以外の句会への参加を禁じるところもあった。オープンな賞への応募も、主宰の選やアドバイスを経てからという結社も、今より多かったと思しい。
〔*3〕例えば『新撰21』以降の分てアンソロジーには、非・結社出自の有力な作家が数多く、結社プロパーと並んでも違和感がない。
〔*4〕「豆の木」のメンバーは流動的で、帰属意識も良い意味で薄い。現在のメンバーそれぞれに「豆の木」の捉え方は異なるでしょう。「超結社」をどのように近いするかもメンバーそれぞれ。しかしながら、人それぞれでは話にならないので、そこはそれ、です。
「結社」を「超」えて、と言いながら、結社を前提とした発想という点では、「結社帰属」と同等かそれ以上に「結社志向」に思えるからです。
と、こういうと、理屈を弄しただけのようにも聞こえるので、具体的な話題へ。
●
「超結社」という語を強い印象をもって受け取ったのは、同人「豆の木」のサイトでした。今もトップページにはその3文字があります(≫http://homepage3.nifty.com/mamenoki-kukai/)。
「豆の木」が始まった1994年当時は、結社が今より強度をもっていたし〔*1〕、結社のしがらみ・束縛も強かったので〔*2〕、それなりに有効だった。結社に所属する当時の若手俳人が、〈結社とは違うところ〉から何かを始めようというモチベーション(結社的閉塞からの脱却)は想像できるし理解できる。貴重なものです。
ところが、時間が経つと、俳句世間全体がちょっと変わってきた。
A 結社出自ではなく、俳句を楽しみ、なおかつ読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現(これは時代の変化だけではなく、広く眺めれば、そういう人たちがいたということかもしれません)。こうした人たちは、結社のしがらみ・束縛とはのっけから無縁です。
B 結社内部にいながら、結社依存というのではなく、読む価値のある(というか、おもしろい)俳句を作る人たちの出現。結社所属のしがらみ・束縛を超えて(あるいは、すり抜けて)、結社というインフラを(悪い意味ではなく)自分のためにうまく使える若手の人たちが生まれているように思います。
結果、〈「超結社」というこころざしや運動〉は、〈結社とクレバーにつきあう結社プロパーの洗練(B)〉と〈結社なんて知らねえよという非・結社出自の野蛮(A)〉のあいだで、(ある意味ひ弱に)取り残されていくことになりました。
言い換えれば、結社出自と非・結社出自が互いに反駁・対立することもなく、既存の俳句秩序をいくぶんか更新した現在の景色〔*3〕のなかで、「超結社」の看板はいつのまにか古ぼけてしまった感があります。
●
「豆の木」サイトのトップページには、「1950年以降生まれの俳句実作者の会」との文言があります(この入会条件はすでに撤廃されたとも聞きますが)。
「1950年以降生まれ」といえば、スタート当初は45歳以下。俳句世間では充分に若手ですし、その世代に「超結社」という機運が生まれたのはわかる気がします(当時まだ俳句を始めていなかった私にも)。
けれども、現在は、65歳以下。もう若手とは言えません。当時の気運が20歳ぶん年をとった。20年間、樽に漬けられたままのようなものです。
「超結社」で始まった「豆の木」は、生い立ちはそのままでいいので、現在から未来にかけては、別のキーワードが必要な気がします〔*4〕。
なお、「豆の木」には、これまで80人近い人が参加。私も2006年から2010年まで所属しました。
●
さて、こんな記事を書いたのは、今年の「豆の木賞」が決まり(太田うさぎさん、おめでとうございます!)、その後、豆の木・掲示板(≫http://6918.teacup.com/mamenoki/bbs) でメンバー間でちょっとした論議があるのを知ったから。
それについては、また別の記事で。
〔*1〕俳句でいっぱしの作者になる、本格的に俳句に関わっていくには、結社所属・結社活動がほぼ必須。また「俳壇」秩序は、結社が基盤。今でもそれは変わらないかもしれないが、俳句世間における結社の存在感は、今とだいぶ違う。
〔*2〕結社のメンバーに結社以外の句会への参加を禁じるところもあった。オープンな賞への応募も、主宰の選やアドバイスを経てからという結社も、今より多かったと思しい。
〔*3〕例えば『新撰21』以降の分てアンソロジーには、非・結社出自の有力な作家が数多く、結社プロパーと並んでも違和感がない。
〔*4〕「豆の木」のメンバーは流動的で、帰属意識も良い意味で薄い。現在のメンバーそれぞれに「豆の木」の捉え方は異なるでしょう。「超結社」をどのように近いするかもメンバーそれぞれ。しかしながら、人それぞれでは話にならないので、そこはそれ、です。
2014/11/11
2014/11/10
■菅井(なんでまた菅井きん?といろいろな人に訊かれる)きんの歌
さびしさに心の牛蒡ひく遊び菅井きんならさつき帰つた 10key
手鏡のおもてもうらも菅井きん物理学的にはあり得ない
そのⅡ(ツー)はネブカドネザルⅡ(に)世のⅡ(に)きのふ見たのは菅井きんⅡ(ツー)
わたくしは菅井きんではありません然るに菅井きんを詠むです
これは短歌ではありません(それはもうわかった)。
菅井きんの歌です。
手鏡のおもてもうらも菅井きん物理学的にはあり得ない
そのⅡ(ツー)はネブカドネザルⅡ(に)世のⅡ(に)きのふ見たのは菅井きんⅡ(ツー)
わたくしは菅井きんではありません然るに菅井きんを詠むです
これは短歌ではありません(それはもうわかった)。
菅井きんの歌です。
2014/11/09
■傷あるところより
やかんに水を入れて、火にかける。温度が上がり、やがて、やかんの底に気泡ができる。
その気泡の、最初のひとつぶは、どこにできるのか?
言い換えれば、水は、どこから沸き始めるのか?
答えは、傷のある箇所だそうです。どの本で読んだ話か忘れましたが、とにかく、そういうことらしい。まったいらでつるつるに見えるやかんの底にも、かならず微かな傷がある。そこに最初の泡ができる。
無花果の傷あるところより開く 土肥あき子
『絵空』第9号(2014年10月20日)より。
まだ固い無花果の実の微かな傷を端緒にして、ぱっくり開く。
●
さて、やかんの泡の話に戻ります。
泡は傷から。それはわかった。では、傷も凹凸もまったくないやかんで(理論的には、そういう仮定は可能です)、均等に熱を加えていくと(理論的には、そういう仮定は可能です)、泡はどこに出来るのでしょう?
出来ない?
出来なければお湯は沸かない? いや、気泡なしで水温が100℃まで上がるのか? そんなことってあり得るのか?
あるいは、傷(差異)がまったくなくても、〈どこか〉に気泡が出来るのか? その〈どこか〉とはどこなのか? 偶然の〈どこか〉なのか?
ないアタマで、それを考え始めると、もうワケがわかならくて、とても気持ちよく、愉しいのですよ。
その気泡の、最初のひとつぶは、どこにできるのか?
言い換えれば、水は、どこから沸き始めるのか?
答えは、傷のある箇所だそうです。どの本で読んだ話か忘れましたが、とにかく、そういうことらしい。まったいらでつるつるに見えるやかんの底にも、かならず微かな傷がある。そこに最初の泡ができる。
無花果の傷あるところより開く 土肥あき子
『絵空』第9号(2014年10月20日)より。
まだ固い無花果の実の微かな傷を端緒にして、ぱっくり開く。
●
さて、やかんの泡の話に戻ります。
泡は傷から。それはわかった。では、傷も凹凸もまったくないやかんで(理論的には、そういう仮定は可能です)、均等に熱を加えていくと(理論的には、そういう仮定は可能です)、泡はどこに出来るのでしょう?
出来ない?
出来なければお湯は沸かない? いや、気泡なしで水温が100℃まで上がるのか? そんなことってあり得るのか?
あるいは、傷(差異)がまったくなくても、〈どこか〉に気泡が出来るのか? その〈どこか〉とはどこなのか? 偶然の〈どこか〉なのか?
ないアタマで、それを考え始めると、もうワケがわかならくて、とても気持ちよく、愉しいのですよ。
2014/11/08
■絶妙な打ち捨てられ方
フィルムカメラの半マニュアル(手動ピント、絞り優先でシャッタースピード自動)で撮った写真。
この写真でひとつ興趣を挙げるなら、捨てられたガラクタの配置。
それを充分に伝える写真になったかというと、ごめんなさいとしか言いようがないが、ともかく、よくぞここまで絶妙な配置で打ち捨てられたものだ!と感嘆するのですよ。
ちなみに、フィルムカメラの面白さの一つは、フィルムによって色合いが異なること。上の写真は、KODAK E100VS。フィルムの特性を引き出した写真とは言い難いのですが、それは腕前の問題だから、しかたがない(それでも雑草のグリーンや自転車の赤はこのフィルム独特の色のような気が) 。
この写真でひとつ興趣を挙げるなら、捨てられたガラクタの配置。
それを充分に伝える写真になったかというと、ごめんなさいとしか言いようがないが、ともかく、よくぞここまで絶妙な配置で打ち捨てられたものだ!と感嘆するのですよ。
ちなみに、フィルムカメラの面白さの一つは、フィルムによって色合いが異なること。上の写真は、KODAK E100VS。フィルムの特性を引き出した写真とは言い難いのですが、それは腕前の問題だから、しかたがない(それでも雑草のグリーンや自転車の赤はこのフィルム独特の色のような気が) 。
2014/11/07
■グルーヴと肌理
@10_key 音数は好きでいいし、季語や切れは、入れたいと思ったら入れればいいです。
— saibara_tenki (@10_key) 2014, 11月 4
鉛筆は鳥小屋に充ち事後の雨 清水かおり
俳句じゃなくて川柳ですが。
『川柳木馬』第142号(2014年10月)より。
材料が多すぎるとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが、グルーヴも肌理も感じますですよ。
なお、現代川柳には、グルーヴはともかくとして、肌理の感じられない句が多いです。柳人は、そこに興味がないのかもしれません。
で、俳句の話をすると、季語や切れは、そう決まっているから、よりも、入れたいから入れる、というほうが、作り手も読み手も愉しいですよ。自発的・積極的ってやつですか。
■そのとき心にぶらさげるもの
『儒艮』第9号(2014年11月)より。
旅に出る心に糸瓜ぶらさげて 岡田由季
心に何かをぶらさげる。喩としては、なんだかわかる。というか。、何もぶらさげない心というもののほうが稀有だろうし、想像しにくい。いつも何かをぶらさげているっぽい。
で、糸瓜である、と。旅に出る、と。
なんだか奇妙なものをさげて旅立つんですね。
つまり、こういうことですか。生活のシーンシーン、そのときの心持ちの如何によって、いろいろなものがぶらさがる、と。心には。
旅に出る心に糸瓜ぶらさげて 岡田由季
心に何かをぶらさげる。喩としては、なんだかわかる。というか。、何もぶらさげない心というもののほうが稀有だろうし、想像しにくい。いつも何かをぶらさげているっぽい。
で、糸瓜である、と。旅に出る、と。
なんだか奇妙なものをさげて旅立つんですね。
つまり、こういうことですか。生活のシーンシーン、そのときの心持ちの如何によって、いろいろなものがぶらさがる、と。心には。
2014/11/06
2014/11/05
■ことば崩し
きゅういち句集『ほぼむほん』(2014年9月/川柳カード)より。
人事部の目があたかもを置いてゆく きゅういち
「あたかも」という語が、名詞、それもブツのように扱われる。これは俳句ではちょっと見かけないやり方。
今更を並べ終えれば渚かな 同
これも同じパターン。ほかにもあるかもしれない。
「あたかも」も「今更」も見えないし、触れられない。なのに、それらがそこに在るかのように読む。
文法を崩しに、さらには、語の基本属性を崩しにかかるわけです。
〔関連記事〕
土砂降りの弁士
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/10/blog-post_23.html
まがまがしき〈妊娠・出産・誕生〉 きゅういち句集『ほぼむほん』冒頭
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/09/blog-post_26.html
人事部の目があたかもを置いてゆく きゅういち
「あたかも」という語が、名詞、それもブツのように扱われる。これは俳句ではちょっと見かけないやり方。
今更を並べ終えれば渚かな 同
これも同じパターン。ほかにもあるかもしれない。
「あたかも」も「今更」も見えないし、触れられない。なのに、それらがそこに在るかのように読む。
文法を崩しに、さらには、語の基本属性を崩しにかかるわけです。
〔関連記事〕
土砂降りの弁士
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/10/blog-post_23.html
まがまがしき〈妊娠・出産・誕生〉 きゅういち句集『ほぼむほん』冒頭
http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2014/09/blog-post_26.html
2014/11/03
■「いわきプロジェクト」から冊子とカレンダーが届いたよ!
≫http://hw02.blogspot.jp/2014/10/blog-post_30.html
これ(↑↑↑)に申し込んだら、早速届きました。
卓上カレンダーはサカナの絵。
『いわきガイドブック いわきに、行ってみた!』は知り合いの俳人も多数一文を寄せ、写真がキレイ。
『あんばさまの町図絵』は、地図好き・地形好きの私には、かなりクル、感じ。
大満足の3点でござんした。
これ(↑↑↑)に申し込んだら、早速届きました。
卓上カレンダーはサカナの絵。
『いわきガイドブック いわきに、行ってみた!』は知り合いの俳人も多数一文を寄せ、写真がキレイ。
『あんばさまの町図絵』は、地図好き・地形好きの私には、かなりクル、感じ。
大満足の3点でござんした。
■まだまだ菅井きんの歌
僧帽筋マネキン砂金菅井きん「きん」の付く語をつぶやきなさい 10key
ツチブタを交換財として閉ぢた社会を生きる菅井きんたち
この歌はあくまでフィクションです実在する菅井きんと一切関係ありません
夜を貫くひかりの棒よ「菅井きんその他」を乗せて電車よ走れ
声嗄れてもまだまだ菅井きんの歌この世の果てを確かめるまで
これは短歌ではありません(なにをいまさら)。
菅井きんの歌です。
ツチブタを交換財として閉ぢた社会を生きる菅井きんたち
この歌はあくまでフィクションです実在する菅井きんと一切関係ありません
夜を貫くひかりの棒よ「菅井きんその他」を乗せて電車よ走れ
声嗄れてもまだまだ菅井きんの歌この世の果てを確かめるまで
これは短歌ではありません(なにをいまさら)。
菅井きんの歌です。
2014/11/02
2014/11/01
■「ジャージー・ボーイズ」は金曜のレイトショーで楽しむのに最適
成功したポップグループの評伝、とてもよく出来た評伝を、そのアルバムを聴きながら読んでいる。「ジャージー・ボーイズ」(2014年/クリント・イーストウッド監督)は、そんな映画でした。
このところのイーストウッド監督は超傑作の奇跡的連続。その流れのなかでは「並みの傑作」?
それでも充分におもしろい。とりわけ「ロックンロールの殿堂表彰式」から最後のミュージカル仕立てへ。楽しいったらありゃしない。
で、カヴァーを貼っておきます。
このところのイーストウッド監督は超傑作の奇跡的連続。その流れのなかでは「並みの傑作」?
それでも充分におもしろい。とりわけ「ロックンロールの殿堂表彰式」から最後のミュージカル仕立てへ。楽しいったらありゃしない。
で、カヴァーを貼っておきます。
登録:
投稿 (Atom)