2014/11/27

■漢字と平仮名 生駒大祐句の用字はなぜ変態ぽいのか?

「週刊俳句あたりをうろちょろしている若い人」って?

今井杏太郎フォロワーで、フインキの句といえば、生駒大祐さんが思い当たるんだけど……。

というか、今井杏太郎的な感じって、今の俳句世間でメジャーでもメインストリームでもないでしょ?


と、えらい古い話題を引きずるかに見えて、今回は、その話題ではないのです。生駒大祐さんの落選展出品作「こゑ」。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/20142_1.html

なかなか感じがいい。フインキが良い。

で、それはそれとして(この話でもない)、今回は、作品うんぬんとは別に、「用字」のことです。



生駒大祐さんの句は、今回の「こゑ」だけでなく、わざわざ平仮名にしたような用字が多い。これ、かなり気になります。

例えば、落選展・タイトルの「こゑ」。《こゑと手といづれやさしき冰水 生駒大祐》。

それから、《雁ゆくも泣く人の面白きかほ 生駒大祐》の「かほ」(spica「かよひあふ」2014年11月5日)。

「声」、「顔」あるいは「貌」ではダメなんですかね?

「手」が漢字で「かほ」が平仮名というところに意味があるのかと読者は立ち止まる、なら、いいけれど、けつまづく。「きかほ」って何?と一瞬思う(思わないか?)。

それに、「こゑ」「かほ」は、鴇田智哉の意匠上の特徴、いわば「鴇田印」という思いもある。

優曇華やかほのなかから眠くなり 鴇田智哉》《こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 鴇田智哉》

どうしても鴇田智哉句を思い浮かべてしまう。

それは、「春の暮」ではなくわざわざ「春のくれ」とあれば、どうしても三橋敏雄《鈴に入る玉こそよけれ春のくれ》 を思い出してしまうたぐいのことです。

「こゑ」や「かほ」、「春のくれ」が鴇田智哉、三橋敏雄の専売特許とは言いませんが、どうしても、そこに連想が行く。

先行作品を響かせたいという意図があれば、それでいいのですが、自分の句(つまり生駒大祐さんの句)のプラスになるとは、あまり思えないのです。



私自身、用字(漢字にするか平仮名にするか)にはかなりこだわるほうだと自認しています。その際の最優先の基準は、視認性可読性です。

例えば、語が別になっている箇所は、漢字・平仮名で区別されているほうが目に入りやすく、読みやすい。

真桑瓜みづのかたちをしてゐたり  生駒大祐(落選展「こゑ」)

「水」ではなく「みづ」なのは、「真桑瓜水のかたち~」 とすると、瓜→水と並ぶ部分の視認性が悪い。だから、「真桑瓜みづの~」とするか「まくわうり水の~」とする。

ところが、

ゐる鳥が近くにあるはあきの暮  生駒大祐(spica「かよひあふ」2014年11月4日

これはどうでしょう。読みにくい。ひじょうに読みにくい。

変態ぽい。


視認性を考えるなら、「近くにあるは秋の暮」のほうがいい。

ここはこだわりたいんですよね。
視認性・可読性って、とてもたいせつ。


一方、視認性・可読性という基準ではなく、フインキで用字を決める、用字でなんらかのフインキを出したいという魂胆については、あまり好きになれません。

その意味では、生駒大祐さんは、平仮名でフインキを出そうとしすぎ! と私には映るのですよ。


と、ここまで書いて、「細かいこと言ってるなあ、自分」と思いました。

ごめんな。


(よっしゃあ。ひさしぶりの「ごめん」締め)


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