「週刊俳句あたりをうろちょろしている若い人」って?
今井杏太郎フォロワーで、フインキの句といえば、生駒大祐さんが思い当たるんだけど……。
というか、今井杏太郎的な感じって、今の俳句世間でメジャーでもメインストリームでもないでしょ?
と、えらい古い話題を引きずるかに見えて、今回は、その話題ではないのです。生駒大祐さんの落選展出品作「こゑ」。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/20142_1.html
なかなか感じがいい。フインキが良い。
で、それはそれとして(この話でもない)、今回は、作品うんぬんとは別に、「用字」のことです。
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生駒大祐さんの句は、今回の「こゑ」だけでなく、わざわざ平仮名にしたような用字が多い。これ、かなり気になります。
例えば、落選展・タイトルの「こゑ」。《こゑと手といづれやさしき冰水 生駒大祐》。
それから、《雁ゆくも泣く人の面白きかほ 生駒大祐》の「かほ」(spica「かよひあふ」2014年11月5日)。
「声」、「顔」あるいは「貌」ではダメなんですかね?
「手」が漢字で「かほ」が平仮名というところに意味があるのかと読者は立ち止まる、なら、いいけれど、けつまづく。「きかほ」って何?と一瞬思う(思わないか?)。
それに、「こゑ」「かほ」は、鴇田智哉の意匠上の特徴、いわば「鴇田印」という思いもある。
《優曇華やかほのなかから眠くなり 鴇田智哉》《こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 鴇田智哉》
どうしても鴇田智哉句を思い浮かべてしまう。
それは、「春の暮」ではなくわざわざ「春のくれ」とあれば、どうしても三橋敏雄《鈴に入る玉こそよけれ春のくれ》 を思い出してしまうたぐいのことです。
「こゑ」や「かほ」、「春のくれ」が鴇田智哉、三橋敏雄の専売特許とは言いませんが、どうしても、そこに連想が行く。
先行作品を響かせたいという意図があれば、それでいいのですが、自分の句(つまり生駒大祐さんの句)のプラスになるとは、あまり思えないのです。
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私自身、用字(漢字にするか平仮名にするか)にはかなりこだわるほうだと自認しています。その際の最優先の基準は、視認性・可読性です。
例えば、語が別になっている箇所は、漢字・平仮名で区別されているほうが目に入りやすく、読みやすい。
真桑瓜みづのかたちをしてゐたり 生駒大祐(落選展「こゑ」)
「水」ではなく「みづ」なのは、「真桑瓜水のかたち~」 とすると、瓜→水と並ぶ部分の視認性が悪い。だから、「真桑瓜みづの~」とするか「まくわうり水の~」とする。
ところが、
ゐる鳥が近くにあるはあきの暮 生駒大祐(spica「かよひあふ」2014年11月4日)
これはどうでしょう。読みにくい。ひじょうに読みにくい。
変態ぽい。
視認性を考えるなら、「近くにあるは秋の暮」のほうがいい。
ここはこだわりたいんですよね。
視認性・可読性って、とてもたいせつ。
一方、視認性・可読性という基準ではなく、フインキで用字を決める、用字でなんらかのフインキを出したいという魂胆については、あまり好きになれません。
その意味では、生駒大祐さんは、平仮名でフインキを出そうとしすぎ! と私には映るのですよ。
と、ここまで書いて、「細かいこと言ってるなあ、自分」と思いました。
ごめんな。
(よっしゃあ。ひさしぶりの「ごめん」締め)
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