というシンプルで、当たり前すぎるかもしれない話。
こういう(大きな)主語に続く述部は、例えば定義とか、場合によっては教条もあり得るのだけれど、そのときもたいていは《願望》含み、《願望》そのもの、というが気がしていて、ただ、これは悪いことではなく、文芸、あるいは表現ジャンルでは、それでいいのだと思う。「願望に過ぎない」のではなく、願いに向かって突き進んでいるわけです。
いろいろな(人の)願望が重なり合うところを喜び、希望を見出すのか、あまりにも互いに遠いことに諦念・絶望を味わうのかは、次の問題なのですが、いかにも、それしかない、自明の真理、みたいに宣言される述部にしても、その人の願望なのだ、と思うことにしている。
すると、特定の述部にっそぐわない句を、あらかじめ除外する態度は免れるし、いろいろな俳句的事象をふところ深く受け止めるられる。気がする。
ラヴ&ピース!
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