2008/10/05

エレキ三味線

『記録の百科事典・日本一編』(紀田順一郎・間羊太郎編・1971年)を読んでいたら、「エレキ三味線」という項目があった。

最も音のでかい三味線は、1929年(昭和4)6月、神原重次と石田一治によって製作された「電気三味線(咸弦)」で、皮のかわりに薄いベニヤ板を用い、内側の隅に電気の差し込みソケットをとりつけ、コードをアンプにつないだもの。さしずめエレキギターの日本版と思えばよいが、当時はアンプなどに良いものがなく、効果も思わしくなかったので、まもなくすたれた。

なんだか、すごい楽器だが、ほんとかなあ。

この「事典」、いろいろな日本一についての説明で埋まっているが、実用度はほとんどゼロ(1971年事典で日本一音のでかい楽器が「エレキ三味線」だったことを知って、何になる?)。ところが、読み物としては、けっこうハマる。

紀田順一郎の本には、ハズレがない。濃い内容でも、ゆるい内容でも(この『記録の百科事典』は典型的に「ゆるい」ほう)、どちらもそれなりに楽しめてしまう。

2008/10/04

三味線ブギウギ

猫髭さんキッパリ曰く、「琴とハープはジャズに合いません」。

そうかも。

でも、三味線とブギは合いますぜ。市丸さんの昔から。

2008/10/03

蝉がセミヌード? どこで笑えと?

滑稽俳句協会なるものが設立されたとか(↓)
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008092701000109.html

記事の冒頭、こうある。
「蝉殻をぬぎつつあればセミヌード」。この句にニヤリ、クスリとしたあなたはどうぞ入会を。

協会設立の趣旨はよろしいのでしょうし、私自身、俳句の滑稽味を大いに楽しむタイプ。他人様の為されることに水を差すつもりもない。

だが、この「蝉殻を」の句を滑稽と言い、これを滑稽俳句と呼ばれてしまうと、すごく困ってしまう。泣きたくなります。

俳句愛好者として、残念でならない。俳句の滑稽とは、こんなもんじゃない、もっともっとおもしろいものなのに、なあ、と。

知らない人がこの記事を読んだら、「俳句の滑稽って、この程度か」と思うだろう。それがくやしい。

記者が適当に挙げた句に過ぎないにしても、です。

2008/10/02

2008/10/01

ロージナ茶房

大井恒行「高屋窓秋とロージナ」(『現代俳句』2008年10月号)を読み、高屋窓秋や三橋敏雄が、国立駅南口のロージナ茶房をよく利用していたことを知った。ロージナ茶房なら30年以上前から知っている。若い頃はよく利用もした。

高屋窓秋や三橋敏雄は、私にとって「俳人」ではあっても、生身の人間のようには思えない。句とともに黒く印字された四つの漢字が、高屋窓秋であったり、三橋敏雄であったりする。

もちろん、彼らは人間である。喫茶店でお茶を飲んだりもしたのだろう。それでもやはり、私がよく知っているあの店のビニール張りの椅子に高屋窓秋や三橋敏雄が腰掛けていたと、そう想像しても、ほとんどピンと来ない。

「著者」「作家」は、私にとって不思議な存在だ。例えば、読者として尊敬や愛情をもって接した「著者」「作家」と実際に会う機会を得たとき、それを「うれしい」と思う人もきっといるだろうが、私の場合は、そうではないようだ。どうしていいかわからなくなる(実際、何度かそういう状態になったことがある)。挨拶くらいはできるが、それが精一杯になってしまう。

黒く印字された名前の持ち主が、肉体をもって、自分の目の前にいることの奇妙さから、なかなか抜け出すことができないのだ。これはまあ、幼児が、絵本のなかの出来事と現実の区別がつかないことと、すこし似ているかもしれない。