2012年8月26日(日)
14:00 JR国立駅南口集合
句会場所:いつものキャットフィッシュ
席題10題程度。よろしければ句会後の飲食も(会費アリ)。
ご常連様も、久しぶりの方も、初めての方も、よろしくどうぞ。
2012/08/24
2012/08/23
消息 芸者その他
●真説温泉あんま芸者 第9回 俳句のなかの「私」:週刊俳句・第278号 を書きました。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/9.html
真説温泉あんま芸者シリーズは前回が2011年1月16日。1年半ぶりだったんですね。
若手女流俳人であり作家の石原ユキオによる憑依俳句。そして、自由律俳句!
《私》という微妙かつヘヴィーな問題を、カジュアルに(いいかげんな感じで)書きました。
でもね、こういうの、領土問題と同じで、俎上に載せない、議論しないことで平和が維持されているというオトナの差配・オトナの事情があったのかもしれませんね。
●俳誌拝読 『里』2012年2月号:ウラハイ を書きました。
≫http://hw02.blogspot.jp/2012/08/20122.html
なお、俳誌や句集、俳句関連書のレビューは、週刊俳句で広く募集しているのですが、なかなか集まらず、内製です。
スタイルを問われないレビューって書いてておもしろいですよー。ちょっとした暇つぶしに、また俳壇ジャーナリズム(ぷっw)体験として、皆様にオススメです。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/9.html
真説温泉あんま芸者シリーズは前回が2011年1月16日。1年半ぶりだったんですね。
若手女流俳人であり作家の石原ユキオによる憑依俳句。そして、自由律俳句!
《私》という微妙かつヘヴィーな問題を、カジュアルに(いいかげんな感じで)書きました。
でもね、こういうの、領土問題と同じで、俎上に載せない、議論しないことで平和が維持されているというオトナの差配・オトナの事情があったのかもしれませんね。
●俳誌拝読 『里』2012年2月号:ウラハイ を書きました。
≫http://hw02.blogspot.jp/2012/08/20122.html
なお、俳誌や句集、俳句関連書のレビューは、週刊俳句で広く募集しているのですが、なかなか集まらず、内製です。
スタイルを問われないレビューって書いてておもしろいですよー。ちょっとした暇つぶしに、また俳壇ジャーナリズム(ぷっw)体験として、皆様にオススメです。
2012/08/22
その後
1日で2000view超え、って。
「俳句甲子園のレベル?」http://togetter.com/li/358959 アホみたいな伸び。
振り返ると、最初のツイート、@sekihan さんの「酷評」がいちばん心優しいような気もしてまいります。高校生を一人前の作者と見ていらっしゃるわけですから。
心配される方も多いようですが、当の高校生諸君は、何を言われても大丈夫ですよ。世間知らずで生意気だから。
私もそうだったし、みなさんもそうだったでしょ? 「世間知らず」と「生意気」が高校生の仕事みたいなものです。
それとは裏腹に、俳句高校生たちには、馴化されたようなところがあります。@kitaoojitsubasa さんの「憤り」には納得であります。ただし、オトナ俳人にも馴化は多い。年齢じゃないよ、ってことですか?
関係者の皆様、お疲れ様でございました。「ご当地応援俳句」シリーズというものが私にはありまして、それをもって今回の話題は打ち切り。
愛媛県俳句以外もがんばれよ 10 key
前記事:俳句甲子園を安全に語る方法
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html
「俳句甲子園のレベル?」http://togetter.com/li/358959 アホみたいな伸び。
振り返ると、最初のツイート、@sekihan さんの「酷評」がいちばん心優しいような気もしてまいります。高校生を一人前の作者と見ていらっしゃるわけですから。
心配される方も多いようですが、当の高校生諸君は、何を言われても大丈夫ですよ。世間知らずで生意気だから。
私もそうだったし、みなさんもそうだったでしょ? 「世間知らず」と「生意気」が高校生の仕事みたいなものです。
それとは裏腹に、俳句高校生たちには、馴化されたようなところがあります。@kitaoojitsubasa さんの「憤り」には納得であります。ただし、オトナ俳人にも馴化は多い。年齢じゃないよ、ってことですか?
関係者の皆様、お疲れ様でございました。「ご当地応援俳句」シリーズというものが私にはありまして、それをもって今回の話題は打ち切り。
愛媛県俳句以外もがんばれよ 10 key
前記事:俳句甲子園を安全に語る方法
≫http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html
2012/08/21
俳句甲子園を安全に語る方法
ますはじめに言っておきたいのは、私は、俳句甲子園にほとんど関心がなく、あまり知らないということだ(ここ、「マツコ&有吉の怒り新党」新・3大○○調査会のナレーション調で)。
関心がなくて知らないなら書くな、って? まあまあ、そうおっしゃらずに、そういう視点も何かの役に立つかもしれない。
俳句甲子園という名は昔から聞いたことがあるような気がしていたが、はっきり存在を知ったのは、週刊俳句の当番をやりはじめる少し前(2006年)くらいか。今では、しくみはなんとなく知っているし、開成があんまり強いんで、敵役の位置づけになってることも知ってる(2チーム出ているのは最近知った。開成Aと開成Bで決勝になったら、どうすんの? みんな引くよ)。それくらいの知識はあるのですが、実際に「対戦」を見たのは、何年か前、YouTubeで数分のみ。
これまでどんな句が登場したのかも、あまり知らない。週俳の縁で、俳句甲子園に出たことのある若手俳人とたまに話をするようになり、その関係で、彼らの俳句甲子園時代の句を知っているが、その数句程度(いま週俳の当番をやっている村越敦君の《それぞれに花火を待つてゐる呼吸》とかネ)。
で、そんな私にも、ツイッター上で、俳句甲子園の話題が流れてくる。ちょっと興味深い展開があったので、まとめてみた。
≫ 「俳句甲子園のレベル?」 http://togetter.com/li/358959
sekihanさんの、レベル低すぎ、自信満々風に擁護するこましゃくれたディベートとやら、といった、いわゆるdisりに端を発したもの。
私自身は、その次のツイート「若者は俳句を捨てよ、街に出よ。せっかくの夏休み、他にやることはないのかしらん。」のほうがむしろsekihanさんの言いたいことなのではないかなあと想像する。
私も少しそう思った。「若い身空で何が悲しうて俳句なんぞを」と、俳句甲子園に限らず若い俳人さんたちを見て、思ったものだが、「おまえはどうなんだ?」と訊かれたら、「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。それに、何をしようが大きなお世話なので、言わない。いつ何と出会って、どうハマってしまうかは偶然に過ぎないのだ。
話を戻そう。上に挙げたツイッターのまとめは「誰でも編集可能」にしてあるので、まだ増えるかもしれない。このさき別の展開があるかもしれないが、現時点では、「高校生がやることに、おとなげないことを言うものじゃない」といった意見が多い。
それはそうなのだが、「おとなげない」というセリフは、子どものテーマを扱うときは、最強の抑止力になる。「オトナとして、やさしく見守ってやればいいじゃないか」といった心優しい態度は、じつは凶暴に言論を封殺する(大袈裟に言えばだけど)。ツイッターでも書いたが、苦言が出てきてもいいじゃないですか。「素晴らしい」ばかりじゃ、気持ち悪い。
俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。
週刊俳句で、以前、佐藤文香さんが俳句甲子園のレポートを書いたところ(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/08/blog-post_16.html)、コメント欄が少々荒れた(記事の下に延々と並ぶコメントを参照)。
これはまあ、佐藤さんがみずからのチームの勝敗や判定に触れたものだったので、なんらかの反駁が来るのは予想できたが、かなりの粘着ぶりでありました。
さらに、ウラハイで私が、上記佐藤記事に触れたところ(≫http://hw02.blogspot.jp/2009/08/blog-post_3256.html)、またもやコメント欄でゲンナリするやりとりに。
コメント主の名義が「シキ」とか「ノボル」とか。松山の方ですか、俳句甲子園の関係者ですか、との類推を呼び(もちろん断定はできません)、そうだとすると、さらにゲンナリ疲れてしまうのであります。
数例の出来事で、何かを判断するのは不適切かもれませんが、どうも、俳句甲子園というのは、きれいごとでしか語れない、語らせないところがある。だとしたら、かなり気色悪い状態でしょう。なんなんでしょうね。この雰囲気は。
これは、参加している高校生の問題ではありません。オトナの問題です。
別に、disれ、けなせ、と言っているのではありません。ついでにいえば、私自身は、俳句甲子園が悪いとも良いとも思わない。disるネタもないし、けなす話題も持ち合わせていないから。
ただ、「素晴らしい若者たちが素晴らしい俳句に出会う素晴らしい場、素晴らしい先輩たちや素晴らしい先生方に囲まれて素晴らしい時間を過ごす」といった語り口以外の意見もあっていいよな、とは思います。
そして、こうした《「素晴らしさ」強制力》を居心地悪く思っている高校生や俳句甲子園出身者もいるのではないか。私が知っている俳句甲子園出身者に関するかぎり、彼ら当事者は、むしろ醒めています。《素晴らしい症候群》には罹っていないのです。
●
さて、俳句甲子園をあまり知らない私も、俳句甲子園出身者から感想を訊かれたりします。外から見てどのように見えるものなのか、彼らも知りたいのです。数分間のYouTube観戦だけですが、正直にそのときの感想を言いました。
「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」。
なぜそう思ったのか。きっと、互いに言葉が、対戦相手にではなく、クライアント(審査員と聴衆)に向かっていたからです。これは対話ではなく、もしかしたらディベートでもない。それぞれのチームがクライアントに向かってプラン(句)を提示し、競合の別プランと比べていかに優れているか、さらにいえばクライアント(審査員)にとって、この句を選ぶことが、いかに適切な選択であるかを説得する。当然ながら、このように見えたのは、対戦システムのせいで、高校生諸君のせいではありません。
それともうひとつ、サラリーマンのように見えたのは、既存の評価基準への従順を強いられているせいでもあるようです。これも、高校生諸君のせいではありません。
●
もうひとつ余談として。俳句甲子園出身で今も俳句を続けている人を何人か知っていると先程も言いましたが、「俳句甲子園」という出自をどう捉えているかは、各自大きく違うようです。これは内面の話。
「俳句甲子園」という自分の過去を、引きずる、誇る、利用する、疎んじる、それらが本音かポーズか…等々、各自がたいそう複雑に異なるようなのです(私が充分に理解しているとは言いません。見ていて、話していての感想です)。
●
私自身、俳句甲子園に関心がなくとも、俳句甲子園が、俳句世間の現在のありように大きな影響を与えているとの認識ははっきり持っています。俳句甲子園がなければ、俳句世間の風景は、今とはまったく違ったものだったでしょう。
その意味でも、俳句甲子園は、夏の風物詩、俳句好きの十代の少年少女がたくさんいることにオトナが安心する行事というだけでは捉え切れないものを抱えているように思います。もう少し批評の言説でもって語られることも必要かもしれません。
《参考記事》 俳句甲子園出身者の今の気持ち、というか機微がうかがえる座談記事です。
俳句甲子園の思い出① 村越敦×千倉由穂×高崎義邦×神野紗希×野口る理
http://spica819.main.jp/yomiau/7738.html
俳句甲子園の話②
http://spica819.main.jp/yomiau/7795.html
関心がなくて知らないなら書くな、って? まあまあ、そうおっしゃらずに、そういう視点も何かの役に立つかもしれない。
俳句甲子園という名は昔から聞いたことがあるような気がしていたが、はっきり存在を知ったのは、週刊俳句の当番をやりはじめる少し前(2006年)くらいか。今では、しくみはなんとなく知っているし、開成があんまり強いんで、敵役の位置づけになってることも知ってる(2チーム出ているのは最近知った。開成Aと開成Bで決勝になったら、どうすんの? みんな引くよ)。それくらいの知識はあるのですが、実際に「対戦」を見たのは、何年か前、YouTubeで数分のみ。
これまでどんな句が登場したのかも、あまり知らない。週俳の縁で、俳句甲子園に出たことのある若手俳人とたまに話をするようになり、その関係で、彼らの俳句甲子園時代の句を知っているが、その数句程度(いま週俳の当番をやっている村越敦君の《それぞれに花火を待つてゐる呼吸》とかネ)。
で、そんな私にも、ツイッター上で、俳句甲子園の話題が流れてくる。ちょっと興味深い展開があったので、まとめてみた。
≫ 「俳句甲子園のレベル?」 http://togetter.com/li/358959
sekihanさんの、レベル低すぎ、自信満々風に擁護するこましゃくれたディベートとやら、といった、いわゆるdisりに端を発したもの。
私自身は、その次のツイート「若者は俳句を捨てよ、街に出よ。せっかくの夏休み、他にやることはないのかしらん。」のほうがむしろsekihanさんの言いたいことなのではないかなあと想像する。
私も少しそう思った。「若い身空で何が悲しうて俳句なんぞを」と、俳句甲子園に限らず若い俳人さんたちを見て、思ったものだが、「おまえはどうなんだ?」と訊かれたら、「年取ってからだから、悲しくない」と胸を張って答えられない。それに、何をしようが大きなお世話なので、言わない。いつ何と出会って、どうハマってしまうかは偶然に過ぎないのだ。
話を戻そう。上に挙げたツイッターのまとめは「誰でも編集可能」にしてあるので、まだ増えるかもしれない。このさき別の展開があるかもしれないが、現時点では、「高校生がやることに、おとなげないことを言うものじゃない」といった意見が多い。
それはそうなのだが、「おとなげない」というセリフは、子どものテーマを扱うときは、最強の抑止力になる。「オトナとして、やさしく見守ってやればいいじゃないか」といった心優しい態度は、じつは凶暴に言論を封殺する(大袈裟に言えばだけど)。ツイッターでも書いたが、苦言が出てきてもいいじゃないですか。「素晴らしい」ばかりじゃ、気持ち悪い。
俳句甲子園というのは、上記の「おとなげない」をはじめとする《安全に語る語り方》というのが確かにあって(これが問題だと思うのですが)、それから逸れたことを言うと、しばしばヒステリックな反駁に遭う。
週刊俳句で、以前、佐藤文香さんが俳句甲子園のレポートを書いたところ(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/08/blog-post_16.html)、コメント欄が少々荒れた(記事の下に延々と並ぶコメントを参照)。
これはまあ、佐藤さんがみずからのチームの勝敗や判定に触れたものだったので、なんらかの反駁が来るのは予想できたが、かなりの粘着ぶりでありました。
さらに、ウラハイで私が、上記佐藤記事に触れたところ(≫http://hw02.blogspot.jp/2009/08/blog-post_3256.html)、またもやコメント欄でゲンナリするやりとりに。
コメント主の名義が「シキ」とか「ノボル」とか。松山の方ですか、俳句甲子園の関係者ですか、との類推を呼び(もちろん断定はできません)、そうだとすると、さらにゲンナリ疲れてしまうのであります。
数例の出来事で、何かを判断するのは不適切かもれませんが、どうも、俳句甲子園というのは、きれいごとでしか語れない、語らせないところがある。だとしたら、かなり気色悪い状態でしょう。なんなんでしょうね。この雰囲気は。
これは、参加している高校生の問題ではありません。オトナの問題です。
別に、disれ、けなせ、と言っているのではありません。ついでにいえば、私自身は、俳句甲子園が悪いとも良いとも思わない。disるネタもないし、けなす話題も持ち合わせていないから。
ただ、「素晴らしい若者たちが素晴らしい俳句に出会う素晴らしい場、素晴らしい先輩たちや素晴らしい先生方に囲まれて素晴らしい時間を過ごす」といった語り口以外の意見もあっていいよな、とは思います。
そして、こうした《「素晴らしさ」強制力》を居心地悪く思っている高校生や俳句甲子園出身者もいるのではないか。私が知っている俳句甲子園出身者に関するかぎり、彼ら当事者は、むしろ醒めています。《素晴らしい症候群》には罹っていないのです。
●
さて、俳句甲子園をあまり知らない私も、俳句甲子園出身者から感想を訊かれたりします。外から見てどのように見えるものなのか、彼らも知りたいのです。数分間のYouTube観戦だけですが、正直にそのときの感想を言いました。
「出てきた句は忘れたが、サラリーマンがコンペでプレゼンしているみたいだった」。
なぜそう思ったのか。きっと、互いに言葉が、対戦相手にではなく、クライアント(審査員と聴衆)に向かっていたからです。これは対話ではなく、もしかしたらディベートでもない。それぞれのチームがクライアントに向かってプラン(句)を提示し、競合の別プランと比べていかに優れているか、さらにいえばクライアント(審査員)にとって、この句を選ぶことが、いかに適切な選択であるかを説得する。当然ながら、このように見えたのは、対戦システムのせいで、高校生諸君のせいではありません。
それともうひとつ、サラリーマンのように見えたのは、既存の評価基準への従順を強いられているせいでもあるようです。これも、高校生諸君のせいではありません。
●
もうひとつ余談として。俳句甲子園出身で今も俳句を続けている人を何人か知っていると先程も言いましたが、「俳句甲子園」という出自をどう捉えているかは、各自大きく違うようです。これは内面の話。
「俳句甲子園」という自分の過去を、引きずる、誇る、利用する、疎んじる、それらが本音かポーズか…等々、各自がたいそう複雑に異なるようなのです(私が充分に理解しているとは言いません。見ていて、話していての感想です)。
●
私自身、俳句甲子園に関心がなくとも、俳句甲子園が、俳句世間の現在のありように大きな影響を与えているとの認識ははっきり持っています。俳句甲子園がなければ、俳句世間の風景は、今とはまったく違ったものだったでしょう。
その意味でも、俳句甲子園は、夏の風物詩、俳句好きの十代の少年少女がたくさんいることにオトナが安心する行事というだけでは捉え切れないものを抱えているように思います。もう少し批評の言説でもって語られることも必要かもしれません。
《参考記事》 俳句甲子園出身者の今の気持ち、というか機微がうかがえる座談記事です。
俳句甲子園の思い出① 村越敦×千倉由穂×高崎義邦×神野紗希×野口る理
http://spica819.main.jp/yomiau/7738.html
俳句甲子園の話②
http://spica819.main.jp/yomiau/7795.html
2012/08/19
文語体か口語体か
さて、ここで問題です。次の句は文語体? それとも口語体?
蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤實
答えは、「どちらでもない」。
ついでに爽波も見てみましょうか。小川春休さんの「朝の爽波」第28回で取り上げられている7句。
雪兎作つて溶けて如意ケ嶽 →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
煙草盆火を埋めて草芳しや →文語体
落ちてゐる明智の森の古巣かな →文語体
洩るがまま溢るがままの桶日永 →文語体
葭切の戸を押してくる見舞人 →文・口どちらでもない。
柿の木のいつまで滴らす喜雨しづく →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
箒草蝶の骸の沈みゐし →文語体
7句のうち3句は、文語体でも口語体でもない。
はい、このように、一句一句を見ると、文語体でも口語体でもない句は存外多い。これ、当たり前のことを言っているだけです。
なぜ、当たり前のことをわざわざ書くのかといえば、文語体・口語体どちらでもない句がたくさんあるのに、「私は文語体だ」「あの人は口語体だ」とかといった姿勢や作風にそんなにこだわってもしかたない部分もありますわな、というわけなのです。
もちろん、口語体が、いわゆる作家性の主成分であるかのような作家はいます。たいていの人がすぐに思いつくのは、例えば池田澄子さんでしょう。ただ、作家の「文体」は、文語/口語の二分法で割り切れるほど大雑把じゃない。
文語体でも口語体でもない句はたくさんある。これは屁理屈ですし、一面を言ったに過ぎない(問題となるのは、文語体・口語体の違いが出る場合の話だから)。
でも、あんまりしゃっちこばって、文語体で行くのか? それとも口語体か? と見構える必要もないのではないでしょう。
(文語体だからダメ、口語体からダメ、という予見に支配された狭量な読者は、とりあえず相手にしなければいいのです)
そのときそのとき体が欲するものを食べていれば、まずまず健康に過ごせるでしょう、という程度に。
(喩えがヘンか)
蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ 小澤實
答えは、「どちらでもない」。
ついでに爽波も見てみましょうか。小川春休さんの「朝の爽波」第28回で取り上げられている7句。
雪兎作つて溶けて如意ケ嶽 →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
煙草盆火を埋めて草芳しや →文語体
落ちてゐる明智の森の古巣かな →文語体
洩るがまま溢るがままの桶日永 →文語体
葭切の戸を押してくる見舞人 →文・口どちらでもない。
柿の木のいつまで滴らす喜雨しづく →文・口どちらでもない。調子は口語っぽい。
箒草蝶の骸の沈みゐし →文語体
7句のうち3句は、文語体でも口語体でもない。
はい、このように、一句一句を見ると、文語体でも口語体でもない句は存外多い。これ、当たり前のことを言っているだけです。
なぜ、当たり前のことをわざわざ書くのかといえば、文語体・口語体どちらでもない句がたくさんあるのに、「私は文語体だ」「あの人は口語体だ」とかといった姿勢や作風にそんなにこだわってもしかたない部分もありますわな、というわけなのです。
もちろん、口語体が、いわゆる作家性の主成分であるかのような作家はいます。たいていの人がすぐに思いつくのは、例えば池田澄子さんでしょう。ただ、作家の「文体」は、文語/口語の二分法で割り切れるほど大雑把じゃない。
文語体でも口語体でもない句はたくさんある。これは屁理屈ですし、一面を言ったに過ぎない(問題となるのは、文語体・口語体の違いが出る場合の話だから)。
でも、あんまりしゃっちこばって、文語体で行くのか? それとも口語体か? と見構える必要もないのではないでしょう。
(文語体だからダメ、口語体からダメ、という予見に支配された狭量な読者は、とりあえず相手にしなければいいのです)
そのときそのとき体が欲するものを食べていれば、まずまず健康に過ごせるでしょう、という程度に。
(喩えがヘンか)
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