2012/08/30

某日日記 句会その他

八月某日。

カーラジオからピストン西沢のDJ-MIX。気持ちいいことこのうえない。成分曲を調べると、1973年の「Shaft in Africa」という映画のサントラ。



「うんうん、これこれ」と上機嫌で聴いていたベースは、チャック・レイニーであったことが判明。「うんうん」と、あらためて。


八月某日。

くにたち句会。席題8題。25句ほど投句。考えずに俳句が作れたのは久しぶりのような気がする。故・田沼文雄さんの教えは、「俳句? 考えない考えない」。これがなかなか難しい。

句会後、俳句の話があまり出ないのが、この句会の特徴(私の行く句会はだいたいそう)。句会のあいだ、さんざっぱら俳句の話をしているのだから、終わったら当然、別の話でしょ?と思っていたが、これは、どちらかというと異例らしい(句会後も俳句の話をする句会が多いらしい。そういえば…)。

この夜は、例えば、某若者の内面における架空妻vsリアル女医といった問題からだったか、そうじゃなかったか、なぜかその方面に針が振れ、フーコー的観点も見え隠れしながら、最後は獣姦まで。淑女も交え、広範かつディープに話題が展開したのでありました。


八月某日。

某誌より依頼の八田木枯さん追悼文を締切ぎりぎりに書き、送稿。はなはだ心許ない。昨年3月19日に木枯さんが亡くなってから、思い出話などを、例えばブログや mixi などにほとんど書いていないと思う。書きたくなかったのは「もったいない」からだった。私が木枯さんと接したのは、ほんのわずかな時間だったが、それでもいくつかの思い出はある。それは、たくさんの人に披瀝せず、自分ひとりで大事に持っておきたい。それが、もったいないという感情。

追悼文は何を書けばいいのかわからない。木枯さんの俳句については、エラい人がたくさん書くだろうから、私などが書くことはない。書けるとも思わない。結局、小さな思い出話と木枯さんへの思いを綴ることになった。それでよかったのかどうか。よくわからないが、もう送稿しちゃったから、しかたない。諦めて覚悟を決めることにする。

2012/08/27

消息 千の眼

週刊俳句・第279号に、「夜空 谷口摩耶句集『鏡』の一句」 を書きました。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_26.html

句集評というと、句集の全体を論じる/評するようでヘヴィーかつハードルが高い。紹介に近いレビューというスタイルなら、ある程度、負担なく書ける。

句は引用しすぎない、が原則。というか、好み。たくさん引用すると、それだけで全部読んだ気になる。「もっと読んでみたい」と思わせるのがレビューの本旨、ではないか、と。そうなってるといいのですが。


ウラハイに〔今週号の表紙〕第279号 夜は千の目を持つ を書きました。
http://hw02.blogspot.jp/2012/08/279.html


The Night Has a Thousand Eyes は同タイトルでまったく別の2曲があり、小説、映画との関係もややこしい。その話はまたいつか書くか書かないか、わからないけれど、今日はジャズっぽいほうの曲の、まだ暑いことだしボサノヴァ調の版を。


2012/08/26

俳句、載せてください

俳句を掲載してくださる媒体を探しています。

 俳風昆虫記〔夏〕
 Fabulous Insect Adventure 64句(100句オーダーにも対応)

新作・未発表句だけでなく、既発表(改稿)も含みます(スピカ掲載の「虫の生活」、句集『けむり』等)。

掲載媒体

ネット上のウェブサイト/ウェブマガジン/俳句系ブログ…どこでも結構です(個人ブログは除く:ふつうオファーはないでしょうけれど、念の為ね)。

紙媒体:「来年の夏号で」というお申し出もご遠慮なく。

お申し出の期限:今週の金曜日(2012年8月31日)まで。
※先着順で決定ということはありません。

ご連絡・お問い合わせは tenki.saibara@gmail.com まで。

掲載料は、恐縮ですが「無料」でお願いできれば、と。


※どこからもお申し出がないときは、悲しい……って、その話じゃなくて、週俳に泣きつく用意も。泣きつかれても困る、という声も。

2012/08/25

ごぢやごぢや言ふな

こういう記事が出て、


知っている名前だから、ざわざわする俳人さんたちでありましたが、


御意御意。


そんなことくらいでごじゃごじゃ言うな、と。

土曜日午後を自宅でゆっくり過ごす一俳句愛好者は思いましたですよ。

自分濃度、ひゃっ、ひゃくぱーせんとー?

矢野風狂子さんが、私の記事「自由律俳句・断章」を受けて、「私が《自分からの自由》に利用するのは「写生」です。」とツイート。

へえ、自由律俳人も、そんなことを考えるんだー!と少々驚き、その後のツイートに注目。質問を入れて、考えを聞かせていただいた。それをまとめたのが、これ↓

@fu_kyo さんによる《自分からの自由》《写生》《定型・自由律》

http://togetter.com/li/361047

どうなるのかと経緯を追っていたら、どうも雲行きがあやしい。で…




えー! 思いっきり、「自分」に行っとるやんけ~!

と、まあ、びっくりするやら、力が抜けるやら、です。

つまり、「自分濃度100%」で行きたいけど、それじゃあまりに恥ずかしいし、読者にはつまらないだろうから、「自分濃度」を薄めるために《自分からの自由》をちょこっと混ぜますわ、ということですから、最初に抱いた私の関心は、いったいなんだったのでしょう?

風狂子さんは、《自分コンシャス》を全面的に受け入れていらっしゃるようです。それならそれで、そこを貫けばいいと思うのですが、「それだけだと、ほ ら、読者が…」というのは、合コンで、自分の話だけしてモテたいけど、それだと嫌われるみたいだから、違う話もするね、みたいな話でしょう。

それにですね、「ここが天気さんのいわれる「含羞」の部分(あくまで僕なりの「含羞」ですが)」って、ぜんぜん違いますからw 「自分濃度100%」って時点で、含羞ゼロですから。

風狂子さんは、マジメなのか、ふざけているのか、私がからかわれているだけのか。そこはもう、なにがなんだかわかりません。

私がだまされ、からかわれてるだけだとしても、だいじょうぶ、「私の青春を返して!」などとは言いません。



上記の「まとめ」のあと、「写生」や五七五についてもコメントややりとりががあるのですが、「え? 定型の人は削っていって五七五にするんじゃないの?」といった驚きを見せる風狂子さんがいて、こっちのほうがよっぽど吃驚しましたぜ、という感じです。

ひょっとして、削るのがもったいないと思った人が、長い系の自由律に行くんですか? 教えて、自由な人。

写生に関する部分も、なんだか、《世界》を描写するには、地球の表面積と同じ大きさのスクリーンがベスト、みたいで、それはそれで「シミュラークルとシミュレーション」ぽくて刺激的ですが、文芸でそれだと大変です。



まあ、そんなこんななわけですが、ひとつ、要点は、風狂子さんに限らず、《自分コンシャス》っぽい俳人さんは、「自分濃度」の濃淡は別にして、基本的には、読者が、作者に興味をもつ、と信じているフシがあるところです。

念の為に言っておくと、これ、有季定型も無縁じゃなく、日常のつぶやき+季語、人生訓+季語、私ってこんな人+季語、といった俳句は少なくないのです。「自分なりの表現」「自分なりの感性」といったワケのわからないことを言う人も、その部類です。

でもね、ふつう、読者は、俳句(ことば)に関心はあっても、それを書いた「どっかの人」になんて興味はありません。

「あんたの話はいいから。俳句がどうか、だから」。

それが読者の気持ちなんじゃないですか。

特定の俳人を好むというのは、その人名義の俳句が、読んでおもしろかったという積み重ねの信頼が基盤。その意味では、作者名は商標みたいなものです(これは週俳掲載の 俳句のなかの「私」 に書いた)。



どうも、これは、おもしろい自由律俳句に出会うのが、私にとって先決かもしれませんね。こんど自由律の話をするとしたら(しないかもしれない)、その話ですかね。