@leplusvert そう、意外と思いつきません。
— 関悦史 (@Seki_Etsushi) 2014, 2月 26
あなたが「変態俳句」と思う俳句は?という質問に対して、答えがなかなか思い浮かばないのは、ある一句を「アブノーマル」と呼んだ瞬間、みずからを「ノーマル」の領分に位置づけることになるのではないかという慎みが(無意識に)はたらくからです。
配慮を欠けば、ノーマル-アブノーマルの固定化に手を貸すかもしれないことを知っているので、思い浮かばない(思い浮かべるべきではない) という選択が、リベラルに穏当。
それは、《固定化という不自由》に対して敏感であるということです。
でなければ、私のように「なんかようわからん」というだけの人間か。
一方、すぐに思い浮かぶ人は、よほどの鈍感か、あるいは(上記のような事態が招く)陥穽をなんらかの手順でもって飛び越える作業を済ませたか、あるいは、「アブノーマルを自認する」という《固定化》にすでにして嵌っているか、そのいずれか、ということになります。
3 件のコメント:
天気様のご意見、非常に興味深いです。
でも、固定化ということは実際にはないのでは。人と時代と嗜好によってノーマル・アブノーマルの境界線は違うはず。それに、誰でも何かしらアブノーマルな面を持っているはず。本当にまずいのは負のニュアンスで固定化したアブノーマルに対して偏見を抱いたり、見下したりすることであって、(各自にとっての)アブノーマルを規定すること自体ではないこと。
その意味で、この企画は面白いと思いました。そもそも(個人の定義でも集団の定義でも)アブノーマルはマイナスではないのです。逸脱はプラスの価値観を以て遇されても良いと思います。村八分にするような国民性こそ唾棄されるべき。
ちなみに私は「アブノーマルを自認する」人間ですが、固定化にハマっているとは思いません。もちろん。固定化している人の領域と重複するところはあるでしょうが。固定化にハマるような人間は所詮その程度の人物です。もちろん、自分をノーマルに位置付ける人が慎み深いわけなどありません。全て標準というのは標準ではないです。
アブノーマルを考えること、何を以て現在のアブノーマルとするかを考える、ということ自体をいけないとするのは思想的清潔主義、純正主義、似非人権であって、それこそ危険かと。意見を述べ合ったり、論じたりする自由はあってしかるべき。特に文学では。
ちなみに、固定化は固定化で面白いとおもいます。時代の応じて異なるでしょうから、固定化の変遷を見るのも価値があると思います。
句様さま、こんにちは。
この手のもの(社会的範疇etc)はなかなか流動化はしないので、その程度の意味の「固定化」です。ラベリングと考えていただいてもよいです。
アブノーマルと名付けられた範疇に、「これもそう、あれもそうかな」とラベルと貼りつつコレクションすることは、少なくとも流動化とは無縁で、良い悪いではなく、範疇を規定しようとする態度です。
それと、個人がどう思うか(アブノーマルってステキ! あるいは、何をもってアブノーマルとするかetcの個人的見解・個人的手続き)は、この際、無関係にしておきます(人によって、いろいろですから)。社会的(集合的)な話です。
規範と逸脱は、文化の豊かさに寄与すると思いますが、社会的にはあくまで「規範」があり、そこからの「逸脱」です。アブノーマルが「逸脱」ではないとするなら、そもそも「ノーマル(規範)」の語を含むはずがないので、社会的にはアブノーマルはアブノーマル(ここでも個人の価値観は無縁です)。
なお、規範(同時に禁忌)が文化や時代によってさまざまなことはもちろんです。規範と禁忌に関して、個人が、社会的・文化的強制力の下にあることも(程度や質の差はありますが)ももちろんです。
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