こんな場合、「ぐづぐづの」は、名詞をひとつ飛ばして「うすらひ」にかかるのだろうけれど(意味からして)、同時に「昼」が「ぐづぐづ」のようにも響く。ひとつの名詞にかかって意味を鮮明にする必要は、かならずしもないのだから(実用文じゃないから)。
名詞ふたつのどちらにかかるかは、形式上の規定ではなく、意味によることがもっぱら。むかしむかし《無口であった父のきんたま》という中下の句を投句したとき、「息子の知らない一面もあるよ」という感想/指摘をいただいた。その人は、「きんたま」が無口であったか饒舌であったかは、うかがいしれない、と言いたかったのだろう。私としては、〈無口な父〉と書いたつまりだったので、その人の読み方/捉え方には少々驚いたが、じっさい、どこにかかるかは(両方にかかることも含め)、確定し得ないことが多い(繰り返すが、実用文じゃないので)。
閑話休題。昼やら薄氷の「ぐづぐづ」感が、この句のなかでたゆたい、「波なせり」がその揺れをしっかりと増幅する。くわえて、語尾「なせり」の格調のようなものにも、私は大いに惹かれるのであります。
掲句は『なんぢや』第44号(2019年3月10日)より。
0 件のコメント:
コメントを投稿