2008/09/09

同名異曲

「同工異曲」ではありません。為念。

歌のタイトルに著作権はないらしく、同じタイトルでも曲は別ということもめずらしくない。

The Who という英国伝統のロックバンドに「My Generation」という有名曲がある。聴きたくなって You Tube で検索。The Who が歌い演奏する My Generation がたくさん見つかり、別のバンドが演奏する(カヴァーヴァージョン)動画もたくさん見つかる一方、同名異曲も少なくない。日本人が My Generation というタイトルで日本語を歌っていたりもする。それはそれでかまわないのだろうが、すこしだけ引っかかる。あまりいい気持ちがしない。

カヴァーするのならいいが、まったく別の、自分の曲に「My Generation」というタイトルを付けるというその行為が(というとすこし大袈裟ですね)、まあ、なんというか、はっきり言えば、気にくわない。

The Who の大ファンというわけではないが、ロック音楽を聴いてきた人間からすると、My Generation は特別な曲である。名曲かどうかは知らないが、この曲の存在感を認めないわけにはいかない。だから、筋の通らぬ言い分であろうが詮無い願いであろうが、このタイトルを別の曲に使ってほしくない。

My Generation=私の世代(って直訳すると、とんでもなく間抜けになりますね)というからには、歌う人それぞれに My Generation への思いがあっていい、という発想はわかるが、わかりすぎるだけに、とてもカッコ悪くもある。

My Generation は The Who が歌った。だから、このタイトルはもう誰の曲にも使えない。そう考えるわけにはいかないのだろうか。野球でいえば「永久欠番」のような扱いがあっていいと思うのです。はい。


というわけで、You Tube から。



ドキュメンタリー映画「The Kids Are Alright」からテレビショウでの演奏。「悪ガキ」を演じる4人、それに手を焼く司会者。すべて演出のなかにある。この虚構の感じがかえって「いかにも」。

ついでにもうひとつ。一時期話題になった老人ばかりのボーカルグループ、The Zimmers のカヴァーヴァージョン。My Generation というタイトルがとんでもなく効いている。こうでなくっちゃ。なんだかワケのわからない曲にいたずらに有名曲と同じ名前を付けるんじゃなくて。



2008/09/08

1978年の中堅俳人

ひきつづき『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」のこと。

中堅としてこの特集に登場する38人を挙げておく。くわえて、このうち、冨田拓也「俳句九十九折(2)」(昨日9月7日更新の『俳句空間―豈weekly』)にある「俳句の始まりから現在までを作者名の羅列」された308人にも挙げられている俳人には印を付す。

飯島晴子 
鷲谷七菜子 
轡田 進
斎藤美規
磯貝碧蹄館 
森田 峠
伊丹公子
岡井省二 
杉本雷造
宇佐美魚目 
穴井 太
飴山 實 
川崎展宏 
中戸川朝人
福田甲子雄 
岡本 眸 
阿部完市 
志摩 聡 
加藤郁乎 
広瀬直人 
大峯あきら 
宮津昭彦
河原枇杷男 
原 裕 
桜井博道
平井照敏 
大井雅人
岡田日郎
杉本 零
上田五千石 
折笠美秋 
矢島渚男 
安井浩司 
大岡頌司 
大串 章 
福永耕二 
酒井弘司 
竹中 宏 

38人のうち25人が、冨田拓也の挙げるラインナップにも登場する。ここに洩れたから、また洩れなかったから、どうこう、というのではない。「25人」という数字は、かなり多いと思う。また、印の付かないなかにも、現在、俳句総合誌などでよく拝見する作家名があることからすると、当時の中堅作家のうち多くが、30年を経た2008年時点から振り返った「俳句史」にも名を残していると解していいのか。あるいは、30年後にもりっぱに通用するラインナップをこしらえた特集編纂の目効きぶりを思うべきなのか。

さらに、あるいは、むしろ逆に、こうした俳句総合誌のラインナップ(人選)が、「俳句史」をつくっていくのだ、と解するべきなのか。


まあ、しかし、こうした表面的な捉え方(作家名ラベル的な文学史把握)に大した意味はない。ちょっとしたよもやま話でござんした。

2008/09/07

俳人の処女作

昨日の『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」の話題をひきつづき。

この特集、自選15句にくわえ、39人の(当時)中堅俳人の処女作(公表)が年表に整理されて収録されていて、読者としてはそちらにも興味をそそられます。ちょっと見ていきます。

  栗の木を見あげる枝に栗がなる  加藤郁乎(1938年)

「冬の波冬の波止場に来て返す」(郁乎)の原質を見るような句ですが、本人の注釈として「処女作には参った。『黎明』昭和13年11月号から拾い出してみたが(…略…)、亡父紫舟選の雑詠欄にケツから数えて14番目、本名で1句入選している。ちなみに10歳の秋、祖母の松浦もと女が手を入れたかもしれない」とある。

  鳥墜ちて青野に伏せり重き脳  安井浩司(1958年)

きのう取り上げた安井浩司は「いかにも」な下五。

  一日の外套の重み妻に渡す  飯島晴子(1960年)

外套はマントと読むのだろう。あざやかな句の多い俳人。期待して読んだが、ちょっと反応がしづらい。

意外だったのは次の処女作。

  面影や港にひらく星祭  阿部完市(1952年)

阿部完市のことを、「いまいちばん〈行っちゃった感〉のある俳人」として敬慕しているが、処女作は、まったくどこにも行っていない。


関連記事 「まひる」の作家? 安井浩司

2008/09/06

「まひる」の作家? 安井浩司


  まひるまの門半開の揚羽かな  安井浩司

半開きの門から揚羽が…と読んではつまらない。「まひるま」を時間の特定とだけ読んでもつまらない。「まひるま」=門→半開=揚羽。揚羽が、まひるまの門(あるいは、まひるまという門)の半開そのもののように在る。俳句形式のなかでことばが作用する、そのダイナミズムをそのまま呑み込むのがいい。

掲句は『俳句研究』(1978年1月号)特集「新俳壇の中堅」から引いた。この特集、阿部完市、穴井太、飯島晴子等々、38人の当時「中堅」が自選15句を挙げ、短文を付している。古書店でたまたま買ったものだが、「美味しいとこだけ」的にオトクな1冊。

安井浩司の自選15句で興味深いのは、「まひる」という語を含む句が4句もあること。

  南北のなんでまひるの荻や馬

  犬二匹まひるの夢殿見せあえり

  死鼠を常(とこ)のまひるへ抛りけり

「まひる」がこの作家のキーワードなのか。たまたまこの時期だけなのか。もっと読んでみたい作家のひとり。

2008/09/05

チャンバラ・フィギュア 〔2〕

『用心棒』の卯之助(仲代達矢)のフィギュアなのですね。猫髭さん、ありがとうございます(前記事コメント欄)。

調べてみると、売ってました、用心棒フィギュア(ただし卯の助は売り切れ)。
http://www.hellohappy.com/list.cgi?ctg_id=kurosawa