2019/08/11

■金魚好き

散歩。何年か前の。


2019/08/08

■冒頭集:本を集める

 本を集めるという発想は、日本では意外に古くから存在した。九世紀といえば平安初期の儒者で官僚だった滋野貞主(しげのさだぬし)(七八五~八五二)が、儒者仲間と諮って貴重文書一〇〇〇巻を集め、分類をほどこし『秘府略(ひふりゃく)』と称したが、間もなく散逸し、今日わずか二冊しか伝わっていない。貞主はまれに見る学識の持ち主で、かつ良吏でもあったため、毒瘡に斃(たお)れたときには時人のことごとくが嘆き悲しんだという。このような人柄であるから、国政に資するための文献収集を考えたのであろうが、いまだ理解者に乏しかったことは、簡単に散逸してしまった事実からもわかる。
紀田順一郎『日本博覧人物史 データベースの夜明け』(1995年/ジャストシステム)

2019/08/06

■冒頭集:パンク

 街道沿いの茶店に牢人(ろうにん)が腰をかけていた。
 晴天であった。
 牢人は茶碗を手に持ち往来の人を放心した人のように眺めていたが静かに茶碗を置いて立ち上がると、茶店に面して道幅が広がった広場のようになったあたりに生えた貧相な三本の松、その根元の自然石に腰掛けて休息している巡礼の父娘に歩み寄った。
町田康『パンク侍、斬られて候』2004年/マガジンハウス

2019/08/05

■レビューの日没



一句をとりあげることにそれほどの意義を感じていない点では私もそうだし、だいたいにして「鑑賞」という前時代的な態度が「批評」からはるか遠く後退した位置にあるものとも思うわけですが、それでも、一句について、書く。それは「紹介」ではあっても、「批評」ではない(繰り返し)。

水の被膜 辻内京子遠い眺め』の二句 ≫読む

三月のカブトガニ 加藤知子櫨の実の混沌より始む』の一句 ≫読む

意義の薄い雑文を、性懲りもなく、書き、週刊俳句に載せてもらっているのは、ひとつには、エネルギー的にも時間的にも能力的にも限界(かなりすぐに来る限界)があるということ。

その一方で、期待や望みはあって、それは、自分の雑文を読んだ人が、この句集を読んでみたいと思ってくれること。だから、引用句は最小限にしている。

そして、きほん、いいことしか書かない。ほら、批評じゃないよ、こんなの。

彼/彼女が、手にとる句集を、結果、気に入るか愛するかそれほどでもないか、そこまでは知らない・わからない。手にとるかどうかもわからないけれど、句集や句へとアクセスしようという気持ちが読者の中に1ミリでも生まれれば、私のレビューは成功といえる。

というわけで、来週号(8月11日号)にも、句集から一句をとりあげて書きます。

ラヴ&ピース!


2019/08/04

■湘子百句をぱらぱらと

小川軽舟『藤田湘子の百句』をぱらぱらめくって愉しむ。こういうものはアタマから読むものではないと個人的に思っているので、近くにおいてあるあいだ、ぱらぱらと。

愛されずして沖遠く泳ぐなり  湘子

が、26歳の作なのか、へぇー。青春回顧じゃなくて、ほぼ青春じゃないか!(すでにはんぶん回顧という意見のありましょう。26歳って年齢はどうなんでしょう?)とか、句の周辺情報もときとして愉しい。

ラブホテルなども眺めや鯉幟  湘子

とか。俳人協会をはじめとする俳句自警団の方々から忌み嫌われるカタカナ語、しかもラブホテル。湘子もその師・秋櫻子も「詩にならない卑俗な材料を好まないところがあった。(…)しかも湘子の嫌いなカタカナ語だ」と著者・小川軽舟も驚いている。「一日十句」の賜物らしいので、多作は、毀れる・毀す働きがあるのかも。とか。

酢海鼠や大阪女かはいらし  小川軽舟『手帖』

は、

坂東の血が酢海鼠を嫌ふなり  湘子

への応答なのか? とか。


△△の100句といった選集は自選を含めたくさんあって、分量的にも手軽。がっつり全・句集あるいは全句・集を読むのもいいけれど、エネルギーや時間には限りがある。CD・レコードでいうえばベスト盤も、いいものだ、と思うんですよね。

ラヴ&ピース!