週刊俳句・第362号の「今井杏太郎論1 正門から入る 意味のゲシュタルト崩壊」の話です。
≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/03/1.html
一般にだいたいの句にはなんらかの文彩(あや)のようなものがあるのだけれど、そこに行かない。何もせずに「そのまま裏門を出てゆくような」句ばかりだ。
しかし、「俳句における意味という概念が次第に揺らいでゆくような感覚 」という部分は、よくわからない。揺らぐようには見えない。不安なくらい揺るがない、というのなら、わかる。
あるいは、記事中にある中島敦「文字禍」の登場人物のように、杏太郎句を長く見つめて続けていると、そういう「揺らぎ」(ゲシュタルト崩壊)が起こるのか。
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攝津幸彦、加藤郁乎、阿部完市の句をまず挙げて、それらと対照させたのは、「意味」の側面を論じたから。この布置、無理筋にも見えるが、ひょっとすると、含蓄かも、ですね。意味の剝がれてゆく有り様にもいろいろある、という意味で。
杏太郎句の剝がれ方(剝がし方)は、制作者としてハードな道と思う。一歩まちがうと退屈に貼り付いたまま。「まねるな、危険」という下世話な警句も、杏太郎句には言える。あとに続く人たちが技術論として、どう消化しているのか、ちょっと興味があります。
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