俳句では「季語に織り込み済みのことは季語以外のところで書かない」「雨は降るものだし花は咲くものだからわざわざ降るとか咲くとか言わない」みたいなのがあって(…以下略)たしかにあります。よく耳にします。
≫石原ユキオさんのツイート
これって、どうなんでしょう? 前半部分と後半部分は違う問題なので、分けて考えることにします。
前半部分。季語のこと。
ほぼ同意。季語に含まれることを、季語以外のところで繰り返すと、たいていは退屈な句になります(言われるところの「季語の説明」)。
後半部分。表現のこと。
これについては、ちょっと違う考えを持っています。
雨に「降る」、花に「咲く」は、ムダ・重複。それはわかりますが、これって、いかにも意味偏重の方法論です。
俳句は「意味」を効率的に伝えることだけが目的ではありません。「調べ」のためには、雨が降ったり、花が咲いたり(開いたり)もします。
加えるに、風が「吹く」とかね。「風って吹くものだろう、吹くは不要」というのは、意味から考えた整理のしかたです。でも、俳句は意味だけで出来ているものでもない。意味だけなら、俳句のかたちをとることもない。
俳句には、調べが必須。「降る」や「咲く」が調べをかたちづくることもあります。そんなふうに俳句をつくったり読んだりしてるですよ、私は。
(調べは、韻律だけを指すのではありません。そのへんはややこしくなるので、今回は割愛)
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