『豆の木』第23号(2019年6月1日)より。
中指を滝のごとくに摑まるる 大石雄鬼
指は墓になったり〔*〕滝になったり、たいへんです(この「たいへん」は多義的)。
中指が滝のようかというと、そうでもないような、そうなような。
滝を摑むことができるかどうかというと、できないような、できるような。
二重の親和・違和、二重の納得と不思議があって、滋味深い。
俳句世間・俳句業界には、直喩に慎重な、あるいは直喩を嫌う、あるいは軽んじる傾向があって、杓子定規に教科書的に俳句を扱うなら、それも得策。けれども、「よくわかる」で終わる比喩は、直喩であろうと暗喩であろうと換喩であろうと、それはそこまでのことなわけで、直喩かどうかが問題なんじゃない気がする。滋味が出るのは、そのむこう、つまり、「わかる」と「わからない」のあわいのような箇所。
大石雄鬼は、そうした〈わかる/わからない〉の識閾にある微妙な痛点・快楽点をつく句が多い。直喩に限って、今回、『豆の木』第23号所収の「目玉」10句と拾遺的な「二〇一八年作品」から拾えるだけでも、掲句のほか、
牡蠣殻はつも怒つてゐるごとし
菜の花をまさぐるやうに夜が明ける
五月雨の肋のやうに街覆ふ
ハンカチを明りのやうに男干す
夕菅や根つこのごとき子を抱けり
とぎ汁の津波のごとき盛夏かな
など、かなりの数・かなりの頻度。
1句目はわかりやすさに堕した感はあるものの、2句目は光や映像とともに微細な音まで聞こえてきそう。
〔*〕《秋風やひとさし指は誰の墓・寺山修司》
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