大好きなパール・ハーバーのロックンロール・アルバムに「Don't Follow Me, I'm Lost Too」というのがあって(1980年)、「私についてこないで。私も道に迷っちゃってるんだから」といった具合。
前を歩いている人が道をわかって歩いてると思ったら大間違い。自分と同じく迷子だった、というのは、なかなか素敵な状況です。
むりやり俳句に持っていくこともないんですが、俳句というもの、作者がいつだってわけがわかってつくっていると思ったら大間違い。自分でもわからないような句に、豊かさがあったりしますから、数多くの「わけのわかる」句のなか、たまに出現する「自分でもわけのわからない」句にために、俳句を続けているようなもの、というところがある。
だから、読んで「わからない」という感想を抱いてしまったとしても、それをネガティブに捉えることもない。「作者はわかって作っている」という前提に立つから、私(読者)の「わからなさ」にとまどったりいやになったりする。
作者も読者も迷子、前後不覚でわけがわからない状態、とは、たぶんに理念的ですが、そういうことがあっても(いや、それだからこそ)、愉しいはず。
わかったもの・わかるものをはさんで、作者と読者が向かい合うだけの遊びだとしたら、ええっとつまり、俳句がね、そんなものだとしたら、すぐに飽きてしまうでしょう。たくさんのオトナがこんなに長く遊べるはずがない。
ラヴ&ピース!(ひさしぶり)
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