2015/02/20

■ピクトさんのこと

柳本々々さんの記事。
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-590.html

非常口の緑の人と森へゆく  なかはられいこ

へのオマージュとして、

非常口のみどりの人が消えている  八上桐子

いずれも川柳分野の句。


さて、俳句ではどうか。

あのピクトグラムが句になることはほとんどない。というか見たことがない。

なぜかというと、

非常口みどりの男いつも逃げ  田川飛旅子

この句の存在が大きい。

この句があるから非常口のあの緑色の人影を句にしてはいけない、ということでもないし、できない、ということでもないけれど、この句と違う見方、違う切り口を見出すのは、かなり困難。別の物語を持ってくるか、うまく本歌取りをやるか。手詰まり感は相当なものとなる。

つまり、巨大な存在感をもつ先行句、偉大な先行句が一句あると、「そのネタはもう、あの一句で足りていますよね」という状態が出来上がります(これはネガティブな物言いではありません。俳句レガシーへの敬意)。

一方、先に挙げた2句に先行の類句があると言いたいわけではありません(実際、似ていない)。川柳には川柳のレガシーがあるでしょう。あるいは、川柳分野で田川飛旅子句がどのような位置にあるのか、私にはまったくわかりません。俳句における、あの「みどりの人影」についての事情は、そういうことなんですよ、という話。



で、以上とは別に、ひとつ、思い当たったのは、なかはられいこ句、八上桐子句では、アレを「人」と呼び、田川飛旅子句では「男」と呼んでいる点。

姿かたちからすると、アレは、あきらかに男性です。

女性作家2人は彼を「人」と呼び、男性である田川飛旅子は「男」と呼んだ。これって、口ぶりにおのずと性差が現れた好例だと思うんですよね。


2 件のコメント:

三島ゆかり さんのコメント...

田川飛旅子句、無季だし俳句っぽくない気もしますね。

10 key さんのコメント...

私は、コレ、夏の句として読んでいます。