柳本々々さんの記事。
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非常口の緑の人と森へゆく なかはられいこ
へのオマージュとして、
非常口のみどりの人が消えている 八上桐子
いずれも川柳分野の句。
さて、俳句ではどうか。
あのピクトグラムが句になることはほとんどない。というか見たことがない。
なぜかというと、
非常口みどりの男いつも逃げ 田川飛旅子
この句の存在が大きい。
この句があるから非常口のあの緑色の人影を句にしてはいけない、ということでもないし、できない、ということでもないけれど、この句と違う見方、違う切り口を見出すのは、かなり困難。別の物語を持ってくるか、うまく本歌取りをやるか。手詰まり感は相当なものとなる。
つまり、巨大な存在感をもつ先行句、偉大な先行句が一句あると、「そのネタはもう、あの一句で足りていますよね」という状態が出来上がります(これはネガティブな物言いではありません。俳句レガシーへの敬意)。
一方、先に挙げた2句に先行の類句があると言いたいわけではありません(実際、似ていない)。川柳には川柳のレガシーがあるでしょう。あるいは、川柳分野で田川飛旅子句がどのような位置にあるのか、私にはまったくわかりません。俳句における、あの「みどりの人影」についての事情は、そういうことなんですよ、という話。
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で、以上とは別に、ひとつ、思い当たったのは、なかはられいこ句、八上桐子句では、アレを「人」と呼び、田川飛旅子句では「男」と呼んでいる点。
姿かたちからすると、アレは、あきらかに男性です。
女性作家2人は彼を「人」と呼び、男性である田川飛旅子は「男」と呼んだ。これって、口ぶりにおのずと性差が現れた好例だと思うんですよね。
2 件のコメント:
田川飛旅子句、無季だし俳句っぽくない気もしますね。
私は、コレ、夏の句として読んでいます。
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