第112号(2015年4月1日)には、
俳人にはとにかく自慢ばかりをうんざりするほど見せられてきた。とあって。
息子が東大に入っただの親や亭主が銀行の「支店長」だの、平家の末裔だの。エッセーの中でこんな事書く俳人は山といる。
え? え?(笑 ほんとですか? 「山といる」?
私自身は、エッセーでも酒席でも、そういうの読んだことも聞いたこともない(まわりの俳人にマトモな社会人がいないせい? 最下層の人ばかりだから? おまえがそうだろ!と罵倒する声)。
書いてあることがほんとだとしたら、「今井さん、ご愁傷様です」としか申し上げようがありません。そういうところに近づかなかればいいのだと思いますが、結社の主宰ともなると、そうも行かないのでしょう。
さすがに俳句で息子の学歴や亭主の職業まで言えないから自分は良妻賢母ですという句を作るようになる。子育て俳句では子と格闘する母を演じる。格闘するのは真実にしてもなんで通俗的に、老人に褒められるように格闘するのかなあ。誰もが同じようにケナゲな感じで。
教師俳句を詠む男もそうだなあ。なんでそんなに良い教師になりたがるのかなあ。
おお! ノリノリ!
かくして着物を着て銀座に出かけ歌舞伎座で海老蔵を見たあと鳩居堂で和紙などを買い夜は老舗の鰻屋か(具体的な店が思い浮かばないところが筆者の貧困な生活形態を露呈している)
軽く自虐も盛り込んで、ますますノリノリ。
(細かいことを言えば「和紙」では曖昧。「便箋」とか「一筆箋」でいかがでしょう? )
ね? おもしろいでしょう?
もっとも、間近ではなく遠目になら、「ありゃまなんとも俗物な!」な俳人さんは、誰でも見聞きするので、こういう典型例の挙げ方はなかなか楽しめる。
で、最後に、各所にツッコミを入れまくりの今井聖さんのこの記事に、一箇所ツッコミどころがあったので、それを。
「逢う」は俳句では異性と逢うということ。
え? 異性?
今井さんの視野に、同性愛は入ってこない。ここは「恋人と遭うということ」と書くべきでしょう。
《逢う=異性》という一直線の思考法は、今井さんが批判する側の人々に特徴的なような気もしますが、どうなんでしょうか。善良でケナゲで、社会的にはエスタブリッシュメントの端っこにいるような人々の。
ま、それはそれとして、この連載、まだまだ続きそうなので、楽しみなんですよね。
≫過去記事■冷し豚? 季語の本意・本情という問題
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