スピカでの一か月連載、織田亮太朗「まいにちがしつれん」。連載の途中での「謝罪」が入りました。異例ですよね。
●2017年11月8日
http://spica819.main.jp/tsukuru/21150.html
●スピカ賞 受賞発表
http://spica819.main.jp/tsukuru/21154.html
年寄りがこういうテーマについてなんだかんだ言うのはみっともないし、どうでもいいっちゃどうでもいいのですが、どちらの記事にも「表現」についての謝罪が入っている。
《今後はそういった表現の無いように》《スピカ運営からも不適切な表現の掲載についてお詫び申し上げる》
これを見て、急遽、ちょっと書いておこうと思いました。表現が問題なのか? 違うだろう、ということで。
私が(あるいはSNS上では何人かの人が)違和感を持ったのは、おもに次の二つの記事。
●http://spica819.main.jp/tsukuru/21130.html
●http://spica819.main.jp/tsukuru/21132.html
違和感をざっくりかいつまめば、前者:句会は婚活の場かよ? 後者:結婚は幸せのゴールかよ? ということ。
(付け加えれば、ご自分の恋愛観・女性観・結婚観を、ややうざったいかんじに周囲に振り撒きまくっていると思しき言動)
いわば、織田氏の考え方やスタンスへの違和感です。表現じゃない。
なぜ、スピカ運営も、織田氏も、表現が不適切だったなんて言い方をするのでしょう(失言政治家がよく言う「誤解を招いてしまった」というのに似ている。いや、誤解してないですから)。
表現なんていう政治的な逃げ方をするんじゃなくて、こんなふうに抗弁あるいは補足するべきなんじゃないか?
A「句会を婚活と考えて何が悪い?」
B「結婚は幸せ(の一形態、一手段)でしょ? ちがう?」
(あえて悪ふざけ気味に付け足せば、「私たちスピカ3名は、俳句で伴侶を見つけ、幸せだ。どんなもんだい? なにか文句ある?」)
Aについては、私も、悪いと思わない。そういう魂胆があっていいでしょう。でも、織田さん、それを公言してしまうのはねえ、戦術的にどうなんでしょう?
句会を、恋愛を、結婚を、どう考えるかは人それぞれですが(私もそんなに道徳的な人間じゃないし)、連載を読んで、「この人、他人を好きになったことがあるだろうか?」とはちょっと思いました。ご自分の幸せのことはわかったけど、相手の幸せはどうなんですかね? ということ。
タイトルは「まいにちがしつれん」となっていますが、これ、失恋じゃなくて、失婚の話ですよね。
Bについては、幸せな結婚もあるし、そうじゃない結婚もある。幸せなときもあるし、そうじゃないときもある、と想像いたします。
まあ、そんなこんなで。
織田氏ができることは、一部読者の(想定される)非難・怒り・違和感を「謝罪」でなだめるのではなくて、以降の連載で自虐芸に磨きをかけること。
読者の何人かが得た教訓は、自虐ネタはむずかしいということ。
スピカ運営がすべきだったのは、著者を守ること(上記選考基準の記事である程度は守ろうとしている)。
ちなみに、どうでもいい話ですが、私は既婚者で、現在も婚姻状態にあります。結婚がいいか悪いかと訊かれたら、「いい結婚、ましな結婚になるよう、それなりにいろいろと努力みたいなものはしているつもりですが、むにゃむにゃ」と答えておきます。
0 件のコメント:
コメントを投稿