冷やし豚しゃぶ?
…と思ったのでしたが、違うのです。
尾をふりて首のせあへり冷し豚 三条羽村
今井聖「試行燦々16」(『街』第110号・2014年12月1日)が取り上げた『虚子編新歳時記 増補版』(三省堂)中の一句。「馬冷す」の項目に出てくる句、ということです。
「豚冷やす」という季語は見たことがありません。この句が最初です(最後かもしれません)。
今井聖さんは、この句から論を起こし、虚子が「馬冷やす」「牛冷やす」の「労役後」という部分を無視したことに注目、どんな家畜でも冷やせば夏の季語になるんですね、虚子がこうなんだから、と、伝統派を挑発します(詳しくは『街』誌をどうぞ)。
そのうえで今井さんのこの記事の結論はこうです。
俳句は「写生」だ。写すことがまず在る。写すことは実感です。見て、聴いて、触れて、味わい、匂うこと。
本意、本情などという「知識」をあらかじめ予定しない。
(中略)
「豚冷す」は視覚的現実のナマの実感がいかに強いか、写すことがいかに驚きに満ちたものであるかを教えてくれる。(後略)
つまり〈本意、本情などという「知識」〉よりも〈写す〉ことによって体得される驚きを優先しなさい、というもので、これは、考えようによっては、とても伝統的な態度だと思います。いわゆる「伝統派」よりもむしろ伝統的。
興味深い記事でした。掲句のインパクトも含め。
月とパトカーカーテンの隙間より 今井聖
これは上の話題とは直接関係ありません。同じ『街』誌より引きました。
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自作引用の野暮を。
保安官一行馬を冷やしをり 10key
『豆の木』第18号(2014年4月)より。
これなどは「本意・本情」にそったいわゆる「伝統派」スタイルですな。
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