2015/09/18

■『クプラス』の「俳句界マッピング」余談 普遍主義、ボン・グー、統治

承前:「原理主義」って?……『クプラス』の「俳句界マッピング」

前記事はなんだか回りくどい書き方になっちゃいましたが、原理主義とは、原理を、相対化も何もなくそのまま受け入れて堅持していく態度だから、記事・企画の言わんとすることと逆、何かの間違いでしょう、という話でした。

用語の間違いが些細なことかどうかは別にして、ここでは些細ではないこと、もうすこし大枠の話を。



前記事で「ロマン主義」という軸の立て方が秀逸と言いましたが、じつにそのとおりで、例えば、俳句における「ロマン主義の国」をマッピングするという手も、あるにはある。そのほうがよかったのではないかと、私などは思うのですが、『クプラス』がやったのは、俳句業界すべてをマッピングの範囲とする「全土地図」でした。

これはなぜなだろうと考えたとき、そのほうが面白い、ということの一方に、「統治」という観念が、アタマに浮かびました。

もちろんのこと、広義での統治。

政治機構(各種協会)を統一して、国土(俳句世間)全体の秩序をつくりあげたり租税したり、といった、狭義の統治ではもちろんありません。全体を見渡し、理解し、名づけ、位置づける。極端な話、地図をつくるという行為がもはや統治の観念ともいえそうです。

《統治の欲望》を一貫して持つのが『クプラス』。そう捉えています。

これは今回(第2号)の「俳句界マッピング」だけをもって、そう思うのではなく、第1号の「いい俳句」特集以来変わらず感じるものです。



『クプラス』の提示する「いい俳句」について詳しく書くのは別の機会に譲るとして(こう書いて別の機会が訪れる試しがないのですが)、あれを読んで、即座に思ったのが、文化人類学などでひところ盛んだった《文化相対主義vs普遍主義》の論争です。

「そんなもの知らない、きちんと知りたい」という方は調べてください。
cultural relativism vs universalism
元の英語も書いておきますね、ググりやすいように。
〔参考記事〕

簡単・雑駁に言えば、例えば異文化の習俗を見て、「それぞれなんだなあ」と、それぞれにそれぞれの価値を見るのが文化相対主義、それぞれをひとつの(普遍的な)枠組みの中で位置づけていく/位置づけられるはずと信じるのが普遍主義。

前者は「それぞれ別々の世界に棲んでいる」という捉え方、良い面は、そこに差別(いわゆる「未開」概念etc)はない。しかし、これは同時に冷淡な態度。「あんたらはあんたら」

後者は「それぞれ別々に見えてもひとつの世界に棲んでいる」という捉え方。

例えば、異文化のとても変わった習俗。文化相対主義者は「奇異」とは考えず、「属する文化の内側では、変わってなどいない」と考える。一方、普遍主義者にとっては「奇習」。

で、俳句の話。『クプラス』の話です。

『クプラス』の「いい俳句」概念は、普遍主義の立場です。伝統・前衛を統合する/総合する、という目論見が、あの特集にはありました。それって、単純に普遍主義の立場です〔*〕

文化相対主義者は、そうは考えません。ホトトギスの人はホトトギスの人の決まり事やら美意識・価値観やらがあり、無季・破調、ポエティックな俳句をものする人も同じく。

それらは、互いに「奇習」に見えようとも、それぞれの体系の中では「奇習」などではなく、称揚され尊重され、受け継がれていく。そして、そうして永らえる複数の文化(複数の流派)は、べつだん総合/統合される必要もない。

クプラスが、旧来のサブジャンル(eg. 伝統・前衛)それぞれに備わる価値体系に依ることなく、「いい俳句は、いい」と言うとき、俳句全体を貫く(サブジャンルすべてをを串刺しにする)、あるいは包摂する枠組みのようなものが想定されています。これって、普遍主義です。



ところで、伝統にせよ前衛にせよ「いいものは、いい」と『クプラス』が言うとき、その判断基準とは、何でしょう?

サブジャンルごとなら、ある程度定まった基準があるはずです(細かい流派によっても)。ところが《サブジャンル横断》的な判断基準となると、依拠する既存の体系はありません。そこで何に頼るかというと、見識や好み、ということになるのではないか。

創刊号を読んでみても、実際、そのようです。『クプラス』を見ていると、なにかこう、みずからの「ボン・グー(良き趣味、舌が肥えていること)」への自信・矜持のようなものを感じるのです。

それは悪いことではありません。そういうのって必要です。とりわけ俳句のような「論じる」よりも「味わう」に向いた非・論理の工作物には。

ただ、「ボン・グー」とは、ロックミュージックの喩えでいえば、パンクによって罵倒されるべきもの、打倒されるべきもの、言ってしまえば、保守的で旧来的な観念です。

『クプラス』という俳誌は、たしかに清新な雰囲気をまとい、チャレンジングで、いっけん企画性にあふれる俳誌でありながら、悪く言えば、どこか「古い」感じがつきまとう、良く言えば、正統の格式が漂う。それは、「ボン・グー」への自信が、『クプラス』の核にあるからだと思ったりします。

付言すれば、「統治」への欲望は、きわめて古臭い欲望であり、《正統》の持つべき/持ちがちな欲望です。



というわけで、創刊号の「いい俳句」特集から第2号の俳句界マッピングへ。みなさんが受けるこの雑誌のイメージとは、ずんぶんちがったものを、私は感じているのかもしれません。


適当に乱文乱筆。ていねいに書く精力・体力・知力がないのが残念かつ「誠に申し訳ありません」ではありますが、ちょっとメモ的に書き留めておきたかったことなのです。

(簡単にちょこっとだけ書くつもりが、こんなになっちゃった)

余談が長くなって、ごめんな。



〔*〕私は、俳句に関しては「文化相対主義」がいいんじゃないの、という考え方です、今のところ。それぞれのサブジャンル、流派は、互いに別の体系の中にある。それを前提に存在を認め合う。

〔関連過去記事〕
子規がらみで鶯谷のホテル街に出かけながら記事に街娼(男娼)を買った形跡がないのはいったいどうしたことだろう、あるいは「Jポップ」という罵倒語
若手俳人のイメージ

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