ゲシュタルト崩壊のカジュアルな例として、ある字をじっと見つめ続けていると、「この字、こんなだったっけ?」と、認識が崩れてしまうのが挙げられるんだけれど、俳句にも、ときどき、それに似た崩壊が起きる。
「この句、なんでここに花の名前があるんだろう?」「なんで秋の風なの? なんで豊の秋なの?」。季語だとか取り合わせだとか切れだとか、そんな約束事に実体が感じられなくなると、奇妙な文字の連なりにしか見えなくなる。
別の角度から言えば、一種のジャメビュ。俳句というものが「そんな」かたちをとることをじゅうじゅう承知しているはずなのに、初めて見る異形のように思えてくる。
でもね、それって、身体(読者の身体)の事故でもなく、不幸でもない。潜在する違和感や不審・不信が、身体や感覚に現れたものだと思うのです。
ラヴ&ピース!
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