だいぶ前に、歌人さんたちも参列する変則的な歌会・句会に出たときのこと、合評になって、俎上の短歌について、象徴作用や隠喩を(かなり無理筋で)読み取り「隠れた意味」を滔々と語るのを見て、それが歌人一般のスタイルとは思わないにせよ、「こりゃだめだ。私にはムリ」と思いましたよ。
ムリというのは、いろんな意味。
「書かれていないこと」をどこまで推理(?)分析(?)できるかが鑑賞・批評の勝負であるかのごとく、力(りき)の入ったその語り口を目の前にして、「ああ、俳句でよかった、自分は俳句がいいや」と。
俳句の領分防衛とか俳句への帰依に聞こえたら、心外ですが、俳句って潔い、と心底思ったのですよ。
(短歌が潔くない、とは言ってない)(その方だけのスタイルかもしれないですしね)
俳句は、ぜんぶが蓋で出来ていて、すべての蓋があいている、と言いました(≫こちらの過去記事)。それは、隠された意味・書かれていないことを、読者が見て取る構造ではありません(もしそうなら、俳句は、中の見えない箱)。あけすけで、どこからも、どの読者からもまる見えということ。読みは多様になりますが、それらはすべて、そこに書かれていることなのです。
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