2018/01/09

■読者の多様性:俳句=蓋がぜんぶあいた箱

とうぜんながら言語体験(それは語彙、語にまつわる知識・イメージetcを含め)は人によってじつにさまざまで、

まだレクラムの星のどれみふぁ空すみれ  加藤郁乎

こうした句についてだけでなく、シンプルで了解性の高い句においても(読者の)多様性が読みに反映されるわけですが、この句を例にとりましょう。

レクラム文庫を指すと思しき「レクラム」について、これを親しく過ごした人、名前だけ知っている人、一読なんのことかわからず調べてわかった人、それぞれにこの句はいくぶん違ったふうに届く。

」と「すみれ」の二語から、星菫派に思いが到る人とそうでない人とでも、《読み》は違ってくる。

さらには、「どれみふぁ空すみれ」という音階風の一節を、どうアタマのなかで再現するか。ドレミファソラシミレを、〔A〕等拍で奏でる人、違う拍を割り当てる人、〔B〕ドレミファと歌ってそれから空を思い菫を思う人、〔A〕〔B〕をオーバーラップさせる人。ここでも《読み》は違うでしょう。

《読み》に対するに、句は開かれている。そのとき、句は、蓋でだけ出来た箱の蓋がぜんぶあいた状態、空想幾何みたいな箱。

ただ、だいじなのは、読者の多様さ(読みの多様さ)が句の価値を減じるのではないこと(同時に、念のために言っておくと、「どう読んでもいい」といった不遜傲岸ではまったくなく、読者は、句=作品の用意した受け皿、ふところの深さに、みずからの固有性=多様性のなかのひとつを委ねる)。

読者は、それぞれの資質や経験の差異によって分断されるのではなく、おたがい違う者も、みな、「おお!」と、句に反応すればよいだけの話。

たとえば、曲がかかって、「ここはあのR&Bのイントロの引用」だとか、シンコペーションだとか、13度のテンションだとかいった楽しみ方をする人も、そんなことぜんぜんわからない人も、曲に反応して踊りだせば、みんな一緒。

(掲句が音楽的・音的だから、こうした喩え、話の広げ方になるわけですが)

句意とか解釈とか鑑賞とか、とりあえずどうでもいい。からだが動くか動かないか。

(だから、俳人さんたちには、まえから言ってる。「ごじゃごじゃ言ってないで、踊れば?」)

(話が違うかも)



そんなわけで、読み方が人によってさまざまであることは当然だけど、そんなこと、おかまいなしに燦然とかがやく、あるいはやさしく囁いてくれる句は、たくさんある、って話です。

ラヴ&ピース!


音楽への喩えでもうひとつだけ。掲句のアタマの「まだ」。この2音によって、上の句が7音になっているわけですが、ここ、大好き。

前の小節の最後の一拍からメロディーが嚙んで入る感じで、この「まだ」は大好き。

もういっちょ、ラヴ&ピース!

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