2018/03/15

■花独活そぞろ読み02:棄景


「近景」(p6-27)を引き続き。

この記事のタイトル「棄景」は、ある廃墟写真集のタイトルなのですが、ここでは廃墟というだけでなく、棄てられれたモノの景色という意味でも使いますね。

枯田にて卓袱台に乗る古タイヤ  関悦史(以下同)

ビニール傘もフェンスも枯蔓に呑まれ

国道に立つ数十の冷蔵庫

このように、棄てられれたモノがしばしば登場します。消費社会・消費の世紀の排泄物のような景が、すこし田舎(サバービアというよりももうすこし田舎)に展開される。都市が消費の盛り場・中心とすれば、この句らの場所は、周縁の、波打ち際で水が泡立っているかのような場所。

広告塔塗られて白し秋の暮

機能しないモノも、打ち捨てられた印象を纏います。次の広告を待つまでのあいだの白い塗りつぶし。

今日のおすゝめ定食サンプル全面雪

モデルハウスは夜を照り秋蟬「チ」と一声

サンプルやモデルハウスにも、〈機能〉の皮肉なズレ、つまり「こう使ってくださいという使われ方」が見出せます。これらの奇妙さ、心の中での収まりの軋みのようなものは、俳句的事物(雪、秋蟬)との組み合わされることで、いや増します。

それにしても、「モデルハウス」句の韻律のグルーヴ感。

月光がガソリンスタンド跡地にゐる

霧を行けば工場どもの遺跡ぶり

跡地・遺跡はカジュアルな廃墟。それにしても、前者、「月光が」「ゐる」という言い方の生々しさよ!

ぬひぐるみぎつしり詰まる秋の家

家ぢゅうにぬいぐるみが溢れている、句のとおり詰まっている、という事象ですが、ふつう他人の家には入らないので(また、関さん家がこんなふうだとは思えないので)、よく目にするのは、出窓に積み重ねられた光景。

ぬいぐるみは棄てられているわけではありませんが、他の「棄景」と対照的というよりむしろ同列に感じるとは、いったいどうしたことでしょう。

以上、棄てられたモノという脈絡で話を進めましたが、最後に、「近景」中、心に残る一句。

岡山や沢庵の付くオムライス

洋食屋ではなく、軽食・定食のある喫茶店でしょう。卵の薄いやつ、私がこよなく愛する伝統的オムラスですね。

ラヴ&ピース!



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