「近景」(p6-27)を引き続き。
この記事のタイトル「棄景」は、ある廃墟写真集のタイトルなのですが、ここでは廃墟というだけでなく、棄てられれたモノの景色という意味でも使いますね。
枯田にて卓袱台に乗る古タイヤ 関悦史(以下同)
ビニール傘もフェンスも枯蔓に呑まれ
国道に立つ数十の冷蔵庫
このように、棄てられれたモノがしばしば登場します。消費社会・消費の世紀の排泄物のような景が、すこし田舎(サバービアというよりももうすこし田舎)に展開される。都市が消費の盛り場・中心とすれば、この句らの場所は、周縁の、波打ち際で水が泡立っているかのような場所。
広告塔塗られて白し秋の暮
機能しないモノも、打ち捨てられた印象を纏います。次の広告を待つまでのあいだの白い塗りつぶし。
今日のおすゝめ定食サンプル全面雪
モデルハウスは夜を照り秋蟬「チ」と一声
サンプルやモデルハウスにも、〈機能〉の皮肉なズレ、つまり「こう使ってくださいという使われ方」が見出せます。これらの奇妙さ、心の中での収まりの軋みのようなものは、俳句的事物(雪、秋蟬)との組み合わされることで、いや増します。
それにしても、「モデルハウス」句の韻律のグルーヴ感。
月光がガソリンスタンド跡地にゐる
霧を行けば工場どもの遺跡ぶり
跡地・遺跡はカジュアルな廃墟。それにしても、前者、「月光が」「ゐる」という言い方の生々しさよ!
ぬひぐるみぎつしり詰まる秋の家
家ぢゅうにぬいぐるみが溢れている、句のとおり詰まっている、という事象ですが、ふつう他人の家には入らないので(また、関さん家がこんなふうだとは思えないので)、よく目にするのは、出窓に積み重ねられた光景。
ぬいぐるみは棄てられているわけではありませんが、他の「棄景」と対照的というよりむしろ同列に感じるとは、いったいどうしたことでしょう。
以上、棄てられたモノという脈絡で話を進めましたが、最後に、「近景」中、心に残る一句。
岡山や沢庵の付くオムライス
洋食屋ではなく、軽食・定食のある喫茶店でしょう。卵の薄いやつ、私がこよなく愛する伝統的オムラスですね。
ラヴ&ピース!
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