無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれにもわからない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまったく例のないことであった。それがどれほど近代的なことかは、どこかのでしゃばりが無名戦士の名前を「発見」したとか、記念碑に本物の骨をいれようと言いはったとして、一般の人々がどんな反応をするか、ちょっと想像してみればわかるだろう。奇妙な、近代的冒瀆! しかし、これらの墓には、だれと特定しうる市街や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる、国民的想像力が満ちている。これこそ、かくも多くの国民が、その不在の住人の国民的帰属(ナショナリティ)を明示する必要をまったく感じることのない理由である。
(傍点を下線に換えた;引用者)
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』 Benedict Anderson: Imagined Communities, 1983(白石隆・白石さや訳/リブロポート/1987年)
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