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まことにクリアカット。
特攻のアモラル性は決してデュオニュソスではなく、むしろ狂ったアポロンによるシステムの贄というべきもので、どちらかというとモラル側にあるといえるでしょう。
福田くんの記事が定期的に載る、こうしたコメントが付く、というそのことだけでも、週刊俳句をやっていてよかったと思うですよ。
ま、そんなムダ話はさておき、句集のあとがきには、ある種の戦術・戦略があっていいと思う。例えば、自分の俳句を(まずいかたちで)説明してしまうのは避ける。それも戦術のひとつ。
竹岡一郎さんの「特攻~」うんぬんは《ドラマチックな比喩》。それで効果を狙うか、用語の迂闊さを避けるか。それは著者の選択です。無意識か操作的かはさておき。
ただ、この場合の「特攻」の比喩は、竹岡さん個人のものであると同時に、集合的/社会的なものでもあります。俳句と俳句関係者がその集合性/社会性に乗っかるとしたら、やはりそれは、匿名氏のおっしゃるように、
アモラルなはずの特攻がなぜモラルになるのか、それは自分をシステムの側に置くか、個人の側に置くかということによるのです。そう考えると、「俳句はシステムの尖兵である」との読みも可能になります。…ということでしょう。
今回、福田さんは、著者・竹岡さんの「迂闊」で終わらせることなく、読み直していったわけですが、これはまあ、《身を投げ出した実験である、くらいの意味》(匿名氏)であって、比喩が迂闊であったに過ぎないのだと思います。そして、また話題が戻るわけですが、この「迂闊さ」は集合的/社会的なものであること。ここが今回の話題のキモだと思いますね。
おのおのが身を委ねているところのもの(例えば先の引用でいえばシステム)があらわになる、というか、なんというか。それが迂闊というものの(べつだん悪くもない)効能・機能なわけですから。
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