不思議なことに、セックスはさかんに笑い・嗤いのネタになるのに、その結果ととしてのヒトの誕生という現象を嗤うのは不謹慎とされます。
ところが、そうしたタブーなど知らん顔といった風情も、ないわけではない。
子宮内砂漠に月の満ち行くや きゅういち
砂漠=不毛を子宮に結びつけるのは、大昔の伝統社会でもタブー。
代理母に白湯を注げば午後のキオスク 同
頬杖に舫う脱法物の母 同
意味はよくわからないが、まがまがしさは強く伝わります。
発注と違う嬰児よ安らかに 同
「発注と違う」まではアイロニー。
で、「安らかに」?
なんか凄いこと言ってませんか、この人。
どう解釈するか、何通りかの解釈の選択肢があると思いますが、不謹慎や黒い冗談くらいでは済まないところにまで足を踏み入れた感があります。
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上に掲げた句は、きゅういち句集『ほぼむほん』(2014年9月1日)の冒頭部分。もともとはまとまった10句として川柳誌『ふらすこてん』に発表されたものだという(小池正博による解説)。句集では独立させず、次の句へとページが進んでいく。川柳には「連作」という体裁があまりないと聞いたことがある。この10句は「連作」として提示したほうがよいのではないか、と、読者として思う。「嫁ぐ」ところから始まり、10句の最後は「発注と違う~」の句で終わる。
世間一般では聖域化した〈妊娠・出産・誕生〉を、このようにどす黒く、まがまがしく扱った文芸を、あまり知らない。その点だけとってもユニーク。人によっては不快かもしれない。けれども、〈妊娠・出産〉を世間一般の常識の範囲で、好ましく、ポジティブな感情のうちに扱うばかり(俳句における妊娠・出産・誕生ネタはこの範囲)が文芸ではない。
テーマへと踏み込んだ句群だなあ、と、この『ほぼむほん』の冒頭あたりを読んだときに思ったことでしたよ。
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余録的に。
〈妊娠・出産・誕生〉のポジティブな扱いの一例として、大島弓子『バナナブレッドのプディング』(1977年)のラストにある主人公の独白を挙げておきます。
おかあさん ゆうべ 夢を見ました『ほぼむほん』冒頭と大島弓子のこれと、趣がまったく違いますが、別のことを言っているわけではなくて、同じひとつの「生まれること」について、2つのアプローチのようでもあります。
まだ生まれてもいない 赤ちゃんが わたしにいうのです
男に生まれた方が 生きやすいか 女に生まれた方が 生きやすいかと
わたしはどっちも同じように 生きやすいということはないと 答えると
おなかにいるだけでも こんなに孤独なのに
生まれてからは どうなるんでしょう
生まれるのがこわい
これ以上 ひとりぼっちはいやだ というのです
わたしはいいました
「まあ生まれてきて ごらんなさい」と
「最高に素晴らしいことが 待っているから」と
朝おきて 考えてみました
いったい わたしが答えた 「最高の素晴らしさ」って なんなのだろう
わたし自身もまだ お目にはかかっていないのに
ほんとうに なんなのでしょう
わたしは 自信たっぷりに 子どもに答えて いたんです
すべての「不思議」や「不可解」は、私(たち)がなぜかこの世界に「生まれてきたこと」から始まっているのですからね。
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