昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。
『川柳スープレクス』の川合大祐さんの記事で、この箇所を読んで、びっくりした。
ええーっ! まるで憶えていない。
お会いしたのか? おしゃべりしたのか? 私は。
川合大祐さんはお名前は存じ上げている。というか、『川柳カード』で選者をやったとき、川合さんの句を3句もいただいている(≫こちら)。 その川合さんと実際にお会いしたことがあり、お話までしたというか? 私は。
こうなると、もう軽い記憶喪失ですね。
記事には続けてこうある。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、スタンス。
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
これは自分が言いそうなことです。そう思っているので。きっと申し上げたのでしょう。答えに窮して。
(「だな」は言わない。 私が丁寧語を使わない相手はそうとう親しい人だけ。「かな?」は言いそう。自信のないことを言っているので)
でも、次の文言、「自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。」は、私の言い方が悪かったのだろう、舌足らずだったのだろう。誤解を招いている。「自分が俳句だと思って作れば、それが俳句」というのは、ちょっと違う。
スタンスというのは、ものごとに接する態度のようなことです。モノの見方でもあるでしょう。身の処し方、身のかわし方でもあるでしょう。
俳句的スタンス。
これがあれば、何をつくろうが、自分にとって「俳句」だと思う、ということです。
季語があるとか、切れがあるとか、五七五音になっているとか、そういうことの以前に、俳句的スタンスがなければ、(自分にとっては)ダメということです。
では、「俳句的スタンス」とは具体的にどういうものか。
以下は自分が考える「俳句的スタンス」ですから、他人様に強要するようなものではございません。
「俳句的スタンス」、さらにいえば「俳句的」とは…
フマジメであること。
野暮ではないこと。無粋ではないこと。
野暮・無粋とは、例えば、俳句世間でのみずからの立場・存在感の上昇に躍起になったり、「権威」めいたものをありがたがったり擦り寄ったり、結社や同人や句会の仲間や先生をベタベタと称揚したり、党派的な言動に終始したり。そうした「俳句的ではないもの」が野暮・無粋(この部分トートロジーは承知)。加えれば、「賞」なんてものもぜんぜん「俳句的」じゃない。
あるいは、ものごとに対するに、余裕をもつこと。
あるいは、人に何かを言うに(つまり句をつくるということですが)、愛嬌や茶目っ気を忘れないこと。
ほか、もろもろ。
これらをまとめて、「俳句的」と、自分では思っているわけです。
「俳句的なもの」は、私を救ってくれます。生きさせてくれる。
私は、季語や五七五韻律や切れによって救われるわけではありません(それを楽しむ部分ももちろんありますが、それらはあまり本質的なことじゃないでしょう?)
だから、川合さんとの会話で出たらしい「30音以上の俳句」も、自分にとっては「俳句的」ではあるので、俳句なのです。
まあ、ずいぶん身勝手で一人よがり。他人様には理解してもらえないことですが、正直な話、そういうことなのです。
ちなみに、このブログのタイトル「俳句的日常」も、まさか、俳句をつくる日常、俳句を読む日常、だなんて思っている人はいないでしょう?
ものごとに対して俳句的でありたい、そう過ごしたい日常。このブログは、そういうことなんです。いまさらながら。
6 件のコメント:
自分があまり意識的に言ったわけでもない文言を話し相手がよく憶えていたりすることってよくあります(私の場合)。
一概に言えないのですが大抵それは話し相手を力付けてたり励ましていたりすることも多いような気も。
文言ではなくて、お会いしたこと自体、まったく記憶にないのです。
夢遊病かも。
成程。今更何を、と言われそうですが、私は考えさせられました。フマジメであること。成程、成程。良い言葉ですね。
「となりの山田くん」という映画、昔観たとき、なんか感動しましたが、もう一度観たくなりました。
恐れ入ります。
マジメなフマジメ、というか、マジメにフマジメをやり抜く、というか…。
初めまして(?)、川合大祐と申します。
お目にかかったのは、おそらく去年3月の「かばん」主催合同句歌会だったと思うのですが……(私も、自分の記憶があやふやなほうです)。あの、西原さまですよね? 私の妄想だったのでしょうか。
それはともかく。誤解・曲解申し訳ありませんでした。ですが、この記事を読んで、あの時西原さまが言わんとしていたことが、少しなりとも解ったような気がします。ありがとうございました。
一ヶ月経ってからのコメント、失礼しました。乱文すみません。
川合さん、はじめまして、じゃないのですね。
誤解はきっと私の舌足らずのせいです(繰り返しになりますが)。
かばんの合同句会。そうですそうです。
ほんとうに私は、この手のことを憶えていられなくて困ったことになっています。
お会いすればきっとそのときのことも思い出すはずです。どこかでお会いする機会が訪れますことを願っています。
それはそうと、川柳スープレックス、楽しみに読ませていただいています。
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