まず、『関西俳句なう』(2015年3月・本阿弥書店)刊行に尽力された関係者の皆さまに、敬意を表します。この手のアンソロジーは、人の面で、資金面で、その他さまざまな面で大変なご苦労があったと思います。
加えて、私は、この本を購入させていただいたことをお伝えしておきます。どうでもいいようなことですが、「俳句の本は買うものではなく貰うもの」と思っている人もいるようなので、「買う人間もいるんだよ」ということを言っておきたいわけです。
さて、では、本題です。
●誰が『関西俳句なう』をつくったのか?
『関西俳句なう』には、編者名の記載がない。表紙/カバーにも、奥付(書籍で最もオフィシャルな箇所、というのは好き勝手できない箇所という意味)にも、編者名が、ない。
これはきわめて異例。というか、珍しいことです。
どのくらい異例で珍しいかというと、著者名・編者名の記載のない書籍を大きな書店で一日かけて探してこい、と言われて、1点見つける自信が私にはありません(他の人は知らんよ)。それくらい異例。
「ユニークでいいじゃないですか」
って、そういう問題じゃない。
「まえがき」によると、「関西俳句なう」というウェブサイトがかつて運営されていたとのこと。「まえがき」の書き手として「関西俳句なう 代表 塩見恵介」の記載があります。
とすれば、ウェブサイト「関西俳句なう」が編者ということになります。書名は、このサイト名「関西俳句なう」をそのまま生かした、と「まえがき」にあります。つまり、「関西俳句なう」が編んだ『関西俳句なう』というわけです。ひゃあ、ややこしい。
●この本はどんなアンソロジーなのか?
編者名がないのはさておいて、ページをめくってみると、これはアンソロジーのような本です。
「『船団』に所属している若手作家」(まえがき)13人と「他結社・個人の作家」(同)13人の俳句50句がそれぞれペアとなっていて、「書簡交換」の記事が付いています。さらに、「『船団』諸先輩俳人」(まえがき)〔*1〕による「ミニエッセイ」28篇。
え? 「船団」の若手13人? 「船団」の俳人による28篇のミニエッセイ?
そう、内容の半分以上は「船団」のメンバーによるものです。そして、編集した「関西俳句なう」は船団のメンバー。
つまり、船団メンバーの編集による船団若手のアンソロジー、そこに「他結社・個人の作家」13人が加わったのがこの本、ということが、ページをめくるとわかります。それが自然な受け取り方です。
こう書くと、「他結社・個人の作家」13人がゲストのように思うかもしれませんが、最終ページにある「凡例」によると、掲載順は「船団」会員の年齢順だそうです〔*2〕。船団側が基準。ゲスト扱いでもないようです。
このように、『関西俳句なう』にはいろいろと奇妙なところがありますが、それはそれでいいと思うのです。
書籍の発案(発端)が「関西俳句なう」という船団メンバーによるウェブサイトであること、それ自体は問題ではありません。なにをやるにも言い出しっぺは必要で、それが船団メンバーであってもかまわない。
船団メンバーが編集したアンソロジーに船団若手が半数(13人)入集するというのは、ちょっとカッコ悪いとは思いますが、この手の本の人選はどう選んでも異論は出る。編集で、そうと決めれば、それでいい。
それに、中に入っている俳句を読むときは、どこの所属かなんて気にかけませんし。
「船団」の成分のきわめて高いアンソロジーを「関西俳句なう」と呼ぶのも、まあ、しかたがいのかな、と思うことにします。他に手がなかったのか、とは思いますが、もともとアンソロジーとして歪(ひとつのグループに偏った人選)なのだから、タイトルは難しいでしょう。
以上のようなことは、カタチとしてあまりキレイではありませんが、まあ、「よし」としましょう。
問題なのは、カバー、表紙、帯のどこにも「船団」と記されていないことです。これは、致命的な齟齬です。
この本、ページをめくれば、誰でも、「船団」の人たちの本だと思いますよ。にもかかわらず、「船団」と書いていないのです。どこにも。
「中を読めばわかる」という言い方は、偽装表示を認めるようなものです。「中」ではなくて、「外」に示されていないとダメなのです。こういうだいじなことは。
帯(裏表紙面)には26人の作家名が並んでいますが、これを見て、所属(船団だとか船団じゃないとか)がわかる人、つまりアンソロジーの構成がわかる人などほとんどいません。
「書籍の外観に『船団』の文字がないのが、なぜそんなに問題なのか?」と訝る人もいるかもしれません。
大問題です。読者に対して不誠実だから。それって大問題なのです。
読者に誠実であること。あらゆる出版物はそこからスタートしなければいけない。
「それはそれとして、要は中身でしょう?」という意見もありましょう。でも、それを言ったら、表紙も書名も不要ということになってしまいます。あるいは、そうした極論以外にも不都合はあります。書名ほか外観から伝わるものと中身のあいだにこんなふうに大きな齟齬があると、それが情報のノイズ、激しいノイズとなって、なかなか中身にたどり着けません(現に、この記事、中身にはまだまったく触れていない)。
タイトルにもサブタイトルにも編者名にも「船団」という重要な情報を盛り込む技術がない、アイデアが浮かばない、ということなら、帯に書く手もあります。一般書籍でも、タイトル・サブタイトルで伝えきれない重要な情報を、帯に記したりします。
この本の帯には「東京がなんぼのもんじゃ」という話題の惹句が記されています。これも情報のノイズとなって、読者/潜在読者を本の中身から遠ざけていると思いますが、また、このダサダサの書体選択とレイアウトはどうにかならなかったのか、とも思いますが、ダメとは言いません。これはこれで、なんらかの思惑・戦術があったのでしょうから。でも、この惹句だけで帯一面を使うことはない。本の中身(成分の50%以上を船団が占めていること)を明示/暗示する文言は盛り込めたはずです。
書名はそのまま『関西俳句なう』でもいいです。帯文で、例えばシンプルに「『船団』若手13名+関西在住若手13名」とでも記し、「ミニエッセイ」をぜんぶやめにする〔*3〕。これでだいぶ違います。少しはたたずまいのマシな本になります。
もっとキレイなかたちがとれたはず、いくらでもやり方はあった、と思うのですが、どうしたことでしょう。ケアレスミスでしょうか。そうではなく、もしも、わざと「船団」と謳わず「関西俳句」を名乗ったのだとしたら、悪質ですが、それはないと信じます。
『関西俳句なう』については、今のところ、以上のようなところです。
そんなわけですが、さて、肝心なのは、俳句です。
本の体裁や成り立ちがどうであれ、句に責任はありません。どうか、みなさんが、この本でステキな句に出会えますように。
私も楽しみにページをめくらせていただきます。
〔*1〕 「諸先輩俳人」って、たぶんに尊敬語っぽいですね。身内に向かって奇異な感じがしますが、細かいことはすっ飛ばしましょう。
〔*2〕年齢順は、編集がラクでしょうけれど、読者のこと、作家のことが考えられていない。読者の側に立って、どんな並び方が楽しく読めるか、作家の身になって、どんな並び順なら、それぞれの作品が際立つか、そういう発想があってもいいのではないでしょうか。
〔*3〕ミニエッセイ。これ、要りますか。ただでさえ、「誰でも書けそうでいて、結果、悲惨」の筆頭がミニエッセイです。果敢にも28名の「諸先輩俳人」が挑んでおられます。結果は、読者諸氏がお確かめください。
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