2019/07/01

■そのツッコミじゃない 上田信治発通俗論議の傍流的話題

ウラハイに【俳誌拝読】『鷹』2019年7月号を書きました。
http://hw02.blogspot.com/2019/06/20197.html

この号の編集後記は、話題沸騰の上田信治「ふたたび通俗性について」(週刊俳句・第636号)で触れられています。
そういえば、小川は、出たばかりの「鷹」2019/7月号の編集後記で〈子にもらふならば芋煮てくるる嫁〉が「俳句」6月号で神野紗希の批判を受けたことについて、こう書いている。
作者としては、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待したユーモアのつもりだったので、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取られると当惑する。しかし、政治家の失言の大半も受けを狙って社会的な配慮を忘れた結果ではなかったかと反省も頭をもたげる。社会的な配慮は文学の表現の首を絞めかねない。しかし、文学が人を傷つけることは本意ではない。境界線は時代とともに変わるのだろう。
じつに行き届いたコメントだけれど、やっぱり、ウケを狙っていたんだ、ということが感慨深い。
小川氏の〈注釈〉〈言い訳〉で私が興味深かったのは、《「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待した》という部分。

世の中には、その期待どおり、そうツッコんでくれる人もいるだろうけれど、そうじゃなくって、「へえー、今どき息子の配偶者にそんなことを期待する父親がいるんだー」というツッコミも多いはず。これは《「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取》るのとはちょっと違う。「自分の嫁に煮てもらえ」「自分で煮れば?」という〈ツッコミ〉には近いかもしれない。

芋を煮る娘さん、芋をじょうずに煮る若い女性は、「今どき」もいる。たくさんいる。「いるわけない」はずがない。ツッコミどころは、そこじゃないだろう。

って、これ、上田記事のテーマ(ジェンダーと通俗、ジェンダーではなく通俗)とは無関係なようでいて、そうでもない気がしている。



さて、今回問題になってるジェンダーは社会的話題、通俗はより文学的な話題。きっと、後者のほうが手強い。上田信治はその手強いテーマにあえて切り込んでいるわけだけれど、どう手強いかというと、ジェンダー論がなんらかの合意(充分ではなくともなんらかの合意)や共通理解に達する可能性があるのに対して、通俗論は、おそらく話が通じないままに終わる。

通俗は誰もが内に抱えていて(それを表現する・表明するかどうかは別にして)、多くは無自覚である一方、他者の通俗には敏感だったりするので(逆だと平和なのにね)、お互いに会話が通じなかったりする

例えば、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコ〉む人と、「今どき息子の配偶者にそんなことを期待する父親がいるんだー!」とあきれる人とが、この話題について話し合うことは難しい。というか、お互い別々の婚姻観、男女観、社会観をもってるんだね、と、違いを確認するにとどまる。

だから、その人がどうなのか、は、さておくのがいい。作品(俳句)に限定したほうがいいですね、最低限。通俗が作品に染み渡っているかどうかを問題にする。

とはいえ、作者のキャラを前面に押し立てて書く人、演出的か素(す)かは別にして、句の一人称=作者という書き方・読み方をする人が多いだけに(ついでにいえば、上田信治さんは、このタイプなんだろうなあ、フェイク俳句うんぬんについての考え方を見るかぎりにおいては…。このくだり、気になる人はググってください)、人と句の峻別は困難を極める。



あとひとつ。上田記事の「野蛮」とか「蛮族」に、心情的に反応する人が多いかもしれないけれど(ある種の罵倒や軽蔑を読み取る反応のしかた)、ちょっと直截でナイーヴすぎると思いますよ。これは、まあ、バーバリアン・キャピタリズムみたいな用法を参考にしつつ、社会科学的に、価値ニュートラルに受け取るのがよいと思っています(信治さんの意図は知らないけどね。いや、もう、露骨に煽りたいのかもしれないけどね)。

ちなみに、「バーバリアン」の語源は、わからない異国語をしゃべる人ってことらしいので、ここでくだんの話題(会話が通じない)につながったりする。

ラヴ&ピース!


上田信治 時評のようなもの5 それは通俗性の問題ではないか?

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