2014/07/15

■パリ祭 ナニナニ読みという問題

昨日7月14日はパリ祭(フランス共和国の成立を祝う日、革命記念日)でした。日本で暮らしていて決して親しい祝日ではないのだけれど(ルネ・クレール監督・1923年『巴里祭』を観た人もいまは少ないでしょう。私は未見)、俳句ではたまに登場する。理由は、「ほとんどの歳時記に載っているから」。情けないくらい身も蓋もない理由しか思いつかない。

おまけに、パリ祭と4音でもパリー祭と5音でも行ける、という、さらに情けないアドバンテージ。

以前、たしか句会で、パリ祭という季語は「きらきらしたもの」と相性がいい、という話になり、それは、メガネのパリミキ(1950年創業の眼鏡屋さん)があるから、という、これまた情けないような、フランス人が聞いたら目をまるくしそうな理由しか思いつかなかった。

と言いつつ、私もこの季語を使ったことがあります。

  襁褓して君に逢ふ日のパリー祭  10key

もう大昔のことで、その頃所属していた『麦』では、介護俳句と解していただいた(シモの世話も自分ではままならなくなるだろう、そんな将来、君に逢う。その日は7月14日)。

ところが、これを書いていて思ったのですが、「変態読み」も可能(いわゆる赤ん坊プレイ)。

「走れ変態」9句掲載からまだあまり時間が経っていないせいでもあるでしょう。ううむ。アタマが毒されてしまった。


いわゆる「BL読み」について、私は批判的・抑制的であると某所(ツイッター)で表明したのですが、それは「読解されるべき内容=答えが一つである」ということを意味しない。句の読みは揺れるし、幅をもっている。そのとき、読者の欲望のままに「ナニナニ読み」することへの自省・自制という意味。

そのスタンスを前提としても、襁褓の句は、加齢・被介護読みもできるし、変態読みもできる。これは否めない。


句自身がみずからの姿を見出だせていない、というか、なんというか。句集『けむり』に入れなかったのは正解だったようです。





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