これです。
堀下翔:たまたま俳句を与えられた
≫http://sengohaiku.blogspot.jp/2014/07/jijyo1.html
俳句甲子園というシステムから彼女のような作家が出てくるとは思わなかった。良くも悪くもディベートを通して俳句を戦わせる俳句甲子園において、「ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう」のような句は突っ込みどころの塊でしかなかった。だけれどもこの句はいい句だと思った。面白いから。「突っ込みどころの塊」というより、むしろ突っ込みどころの「見つからない」句ではないかと思いますが(完璧ということではもちろんなく、出場高校生諸君は、この句のどこを突っ込むのだろう? 全部がダメか、全部がなんだか好ましいか、そのどちらかではないか。だから「ディベート」などというある種リクツの応酬にはきっと乗らない句ではないか。ま、それはそれとして)、「面白いから」と言うしかないのは私もほぼ同じです(細かいことをいえば「いい句」とか「悪い句」という言い方を私はしない。してしまうことはあるが、したとたんに後悔する。いい・悪いって、なんだよ、それwww)。
内田遼乃さんが作った句(≫内田遼乃:前髪ぱっつん症候群(シンドローム) http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/10_4064.html)について、何か言うことは難しい。好ましい意味で難しい。小賢しい批評が追いつけないスピードを備えているから。だから、「面白い」としか言うことがない。「面白い」という言い方は無責任だし、そうとしか言えないのは、言うほう(つまり私)の能力不足でしかない。悔しいから、すこし言うと、「横紙破り」だから、痛快である。
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さてと、記事に戻ると、
顧問の外山氏に聞くと、もう俳句は作っていないとのことだった。(堀下翔・同)
そうですか。もう俳句はやっていないのですね。それもまた良し。
その代りに、彼女の俳句をまとめて見せてもらった。摂津幸彦賞や芝不器男賞にも応募していたという。いただいたのは、その応募句群。重複を除いておよそ100句である。ここに書かないと次に陽の目を見るのがいつになるか分からないので、紹介の意味も込めて見ていこう。(堀下翔・同)
「こんな句があったのだ、あるのだ」と伝えることは、大事です。堀下翔さんは、今回、貴重な仕事をしたということでしょう。
内田遼乃さんの句群は、俳句甲子園の「量産」のなかから幸福にも生まれたものなのか、そうではないのかは、わからない(仮定を遡ることになるから、こうしたことはいつだって「わからない」のだ)。
句 と句を並べ、どちらが勝ったの負けたのというゲームのやり方は、その場で盛り上がるにはグッドアイデア、すばらしい。けれども、俳句という広い領野で捉えれば、 きわめて矮小で、つまらない。堀下翔さんの今回の記事は、そこのところを救う、という仕事でもある。俳句甲子園の「量産」の中から突き抜けて「妙なも の」、逸脱(もちろん良い意味での)が生まれることもある。それを多くの人に伝えようという記事は(繰り返しになりますが)貴重です。
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いろいろあるんですよ、俳句にも。
これは単純で当たり前でありきたりで言わずもがななことのようでいて、意外とたいせつなことだと思っているのですよ。
もちろん、「こんな俳句じゃない。クズだ」という人たちもいることはわかっています。でも、逆説的に言えば、「こんなのが俳句だ」という俳句ばかりでは、貧しい。
「俳句じゃない」と言われるような俳句も含めて、俳句のヴァリエーションの豊かさです。
それに「俳句」か「俳句じゃない」かの判定を受けつつ俳句をやることもない。そんな判定にいちいち耳を貸すこともない。大きなお世話なのですね。
で、もっと大切なこと。
俳句である必要も、まあ、ないのです。それが「圧倒的なテクスト」であるならば。
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