フクダくんが週刊俳句の当番の一員となりました(≫こちら)。
現在大学院生ですが、リアルでお会いしたのは彼が大学生のときだと思います。ただ、最初の出会いはまったく思い出せない。俳句を拝読したのはもっと前。彼が高校生のとき、週刊俳句に寄せてくれた「海鳴」8句(≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_12.html)。高校生にして、こんなにもスっと立ち姿が良くて、じょうずな句を作っていたのですね。つまらないやつです。
以前は国立駅の近くに住んでいたフクダくんを街で見かけることもありました(思い出話をしようとしている。当番が終わるみたいな感じですが、違います。始まったのです)。
駅前の横断歩道で自転車に乗ったフクダくんを見つけた私は(顔を知っているという程度でしたが)、「フクダく~ん!」と声をかけた。フクダくんは自転車を降りて、こっちにやってきた。声をかけたものの、用事があったわけでもなく、咄嗟に話題も思いつかない。で、「じゃあ!」と答えた。フクダくんは、また自転車に乗って大学通りへと走り去った。
いっしょにいた嫁はんから、「なんで呼び止めるのよ!」と叱られた。フクダくん、あのときはごめん。
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フクダくんの現在の作風はかなりユニークで、若手俳人のなかで特異な存在感を築いているようです。『俳コレ』には、《春はすぐそこだけどパスワードが違う》《伝説のロックンロール! カンナの、黄!》など、いわゆる青春性を億面もなく押し出した句も多い。これらの句を、私はあまり好きではなくて、「フクダくんの青春俳句は苦手」と関西のイベントにお邪魔したときの二次会で吐露したところ、久留島さんが、
「《ヒヤシンスしあわせがどうしても要る》をあれだけ褒めておいて、それですか!?」
その言い草はないだろう、ということです。
たしかに。でも、言わせていただければ、1曲大好きだけど、アルバム全体を見渡すと、「どうもちょっと」という曲がある、ってことがあるでしょう? あれです。
というよりも、青春俳句がどうもダメなのです。きっと青春にヤマシイことがあるのですね。
それでも、『俳コレ』の100句には好きな句もたくさんあります。
冒頭の
歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之
「知」などとハダカの語が使われ、全体に甘いですが、こういう甘さは意外にきらいではありません。フクダくんは、知(savoir)に近しい学問に、いま携わっていることを差し引いても、すがすがしい覚悟のような第一句です。
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あ、そうそう、自分に引き寄せた話題で恐縮ですが、以前、『手紙』という同人誌(若者ばかりでやっていた)で拙句集『けむり』について書いてくれました。そこでおもしろかった、というか吃驚したのは、「この一句」ということで、《世界一すごい葉牡丹だと思ふ》が挙げてあったこと。
え? この句?
句集というのは(というか『けむり』の場合は)、いろいろな球を投げます。外角低めスレスレの変化球だとか、高めのつり球だとか、直球と思わせて落とすとか。
そんななか、この葉牡丹の句は、いわば「暴投」という位置づけです(ピッチングの組み立てには暴投やビーンボールも要る)。
そういう一句を、わざわざ?
この人は、ヘンな人かもな、と思ったことでしたよ。
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さて、再び『俳コレ』の福田若之「302号室」100句を眺めます。
鉄腕アトム夜露にさらされて眠る 福田若之
ブリキの玩具とは解さない(「見たものを俳句にしなさい」という教条主義には、「玩具ですよ」と答えておけばよいね)。
これはどの巻かなあ? 「ポチョムポチョム島の巻」で両親に叱られたあとか。違うか。
こんどじっくり『鉄腕アトム』について語り合いたい。フクダくん専門の表象(representation)分析でもって、この境界性にまつわる(betwixt and between)テクストについて。
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