短歌の雑誌『かばん』(2014年6月号)が、ふだん短歌に触れない私の手元にあります。
なぜかというと、去る3月2日(日)、同誌主催の「歌人・俳人・柳人合同句歌会」に、なぜかお誘いいただいて、参加したからです。
歌人は「かばん」会員の皆さん、俳句から私を含め3名、川柳から2名。それぞれが五七五七七七を一首、五七五を一句、事前に提出(ふだん作らない形式も作るわけです)。当日、選と合評、というユニークな催しでした。
合評で興味深かったのは、歌人の皆さん(柳人も含めてか)が俳句における「切れ」にたいへん関心を持たれていて、結果、俳人が質問に答えるという流れになったところ。
季語は理解しやすいけれど、「切れ」はわかかりくい、ということだと思いますが、そりゃあ、そうです。俳句をやっていても、なかなか理解の及ばぬところもあり、また、俳人同士で充分な共通理解を得られているかというと、そうでもないところがある。
「切れ」とは、切るというくらいだから、何かが切れる。文脈の「断裂」と、ひとまず解してよいのだろう(参加された俳人の手嶋崖元さんは「ところで、と話を変える機能」とうまく嚙み砕いて説明されていました)。
ところが、現状、私たちがふだん目にする俳句(現在作られている俳句)を考えると、断裂・断絶になっていない「切れ」が数多い(とりわけ、季語+切れ字+12音の形)。
まず、背景説明・状況設定。
これがは例えば12音で何かが語られ、「それは春のことでしたよ」、あるいは、「ちょうどそこに満月が出ていてね」 といったのパターンが典型的。
次に、雰囲気・気分の説明。
例えば「のどか」という季語のあとに「や」が来て、切れる句は、それに続く12音がたいていは「のどか」なことの描写になる。あるいは、諧謔の強い12音のあとに「四月馬鹿」といった季語が来る。これらは「切れ」が断裂ではなく「イコール」の機能。
句の成否はさておき、切れが断裂ではなくなっている句は、とても多い。そのへん、形では切れているのだから、「切れが浅い」とその場で咄嗟にご説明した。二物衝撃といった概念からは遠い「浅い切れ」。これが、今風の句、あっさり味の句の特徴の一つでもあるようです。
(切れ字を使用しない切れも、同様のことが言えます)
「切れ」って、ほんといろいろで、「キレ」は、句ごとに違う働きをしているようです(だからこそ、俳句全体のバリエーションの幅が出るのでしょう)。
とまあ、そんな感じで、とても刺激的でおもしろい合評の時間を過ごさせていただいたわけですが(「かばん」誌に感謝) 、そういえば、と思い至ったのが、五七五七七の一首を準備していたときのことでした。
短歌はほとんど作ったことがない。経験は数首、オクムラさん的なノリをめざして大失敗こいた数首 http://sevendays-a-week.blogspot.jp/2013/10/7.html があるくらいの初心者。一首、作らねば、となったとき、この線(日常日記風)は、まあやめておこうと。
それから、いわゆる私性の強いものも避けようと。これはふだん俳句をやってると、どうも心地が悪い。「私」は使い慣れない。
そう決めて作り始めたわけですが、五七五七七(31音)を一文の構造にするのも避けようとする自分がいる。これは興味深いことでした。どこかで「切り」」たがる。一つのことを言うのだけれど、構造として、人つながりにしたくない。結果、出来上がったのが、
駆け抜ける馬のかずかず現実の世界と同じ大きさの地図 10key
という31音。名詞節+名詞節。〈現実の世界と同じ大きさの地図をあまたの馬が駆け抜く〉とはしなかった(どちらも巧拙や成否は別問題)。
これは、自分て「俳句体質なんだなあ」と思ったことでしたよ。
(短歌では、節と節で構成する場合、どちらかを用言止めにするらしい。体言止め同士の名詞節+名詞節は、さすが短歌初心者・シロウトといったところでしょう)
「切れ」は、私に染み付いていたのですね。って、そんなカッコいいものではなく、31音どころか、17音の〈長さ〉に耐えられない、という人が俳句を楽しんでいるのかもしれないですよ。いや、これ、わりとマジメな話。
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追加の話題として、歌人の皆さんの短歌の読みが、象徴作用、隠喩へと積極的に足を踏み入れるのを聞いていて、この点でも、自分の俳句体質を感じました。
象徴作用を俳句に持ち込まないという自分の態度とは遠い。
これは短歌と俳句の違いなのか。その場にいらした歌人の傾向なのか。そのへんは、まったくわかりません。
≫関連記事:週刊「川柳時評」
≫かばんの会・ウェブサイト
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