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句集と俳誌をいっしょに扱うのは、やや無理があると思いますが、どうなのでしょう? 「俳句を世に出す」という意味では同じなのでしょうか? 発信側・受信側双方にとって、かなり違う、というのが実感。
で、なんと! 『はがきハイク』もちょこっと出てくる。
「句集スタイル」にせよネットプリントにせよ(あるいは筆者は読んだことがないけれど西原天気・笠井亞子の葉書媒体『はがきハイク』、年に数回出る雪我狂流のホチキス止め句集など、「出し方」はさまざまにある)、自由な場、新しい表現が可能な(結社誌よりは容易な)場に書かれる俳句が、そこに書かれたがために変な読まれ方をする。もったいない。『はがきハイク』は、俳誌を気取ってはいますが、なかば私信のように考えていたので(publishingとは言いきれない=俳句世間に向けて発信していない)、こういう脈絡で取り上げていただくのは、かなり意外。
電子書籍や「ネットプリント」等、今日的なスタイルとは対照的な、はがき・郵送というスタイルは最古の部類。事情を漏らせば、週俳の当番をやってる自分にとってアンチ=インターネット、アンチ=デジタルとして、紙,・インク・アナログ・スネールメールへのこだわり。その意味でも、ここに並んでいるのは意外。
「変な読まれ方」も意外。
あまりに意外なので、次号(第10号)は発送先を再検討します。
(「読んだことない」んだから、無視していただくのが一番よろしかった。わざわざ名を挙げて並べていただくほどのものでもない)
ちなみに、私自身は、週刊俳句とかに俳句を10句発表するほうが、よほど「世に出す」感じがあります。プレシャーも含め。
ただし、「世に出す」と言っても、実際には少しだけの人たちの目に届くか届かないかというのが現実。 「届ける」という能動性さえアヤシイ。句は、届くところには届くでしょう、というのが実感。大げさでも悲観でもなく数人に届けば、ラッキー、うれしい(「はがきハイク」はそれが実現できている実感=レスポンスetc があるので続けている)。
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ところで、句集なんですが、2~3年後に出したいという考え。木枯さんが5~6年に1冊とおっしゃっていたのが耳に残っている。しかしながら、次の句集は700~800句以上か?てな構想なので、「2~3年後」は無理っぽい。本文紙、字組までイメージがあるのですが(器が決まっている)、中身がまだまだ揃わないことでしょう。10年かかっちゃうかもしれないし、出ないかもしれない。それはそれで楽しい。
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なお、上記、堀下氏記事は、以下の箇所が重要。
しかしこの流れにあえてネットプリントの名前を出す必要はない。それでも出てくるのは、ネットプリントという積極的発表のかたちに対する好き嫌いの現われである。こんなふうに、積極的発表に対する印象は、ときに作品そのものへの印象に直結する。それは、俳句の中身ではなく、俳句がどこに書かれるか、という点が読みに関わっていることに他ならない。
『俳句』誌の合評鼎談、あの、主宰やおじいさん俳人、おばあさん俳人には、とても甘く、一方、キャリアが浅いと踏んだ作者にはこまごまとしたダメ出しが多いことで有名で、なぜか、メンバーが変わっても、上や「御同業」への媚び、下へのふんぞり返りが醸し出す空気が変わらないことで有名なコーナー(読んだことないけど、そういう評判)に触れた部分。
読んだことないなら、言うなよ、って? それもそやね。
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